熱い息をついた童は、うっすらと額に滲む汗をぐいと拭った。細い手足を投げ出すようにして天を仰ぎ、そっと瞼を閉じる。頭の高いところで一つに括り上げられた鴉羽の彩の髪が風に揺れ、先が襟足を擽るのに、童は小さく首を竦めた。其の光景は何とも鮮やかに童の明るさにも似て、ここ最近雨を知らぬ天に何とも相応しい。
「若君」
日の光の下に佇む、眩い静謐を乱さぬようそっと声をかける。ゆるりと柔らかい仕草で此方を振り返った童は、目を瞬かせてから笑みを浮かべた。
「…師直」 「どうぞ、冷えてます」 「ありがとう」
堅く絞った巾を差し出せば、すたすたとやはり何処か幼い歩き方で近付いてきた。皐月の空は青く、吹き上げる風は爽やかに。惰性で流れ続ける平穏は、何よりも堅固で在り続けている。
自分がこうして五つ歳若き主に仕えるようになって、もう一月もの時が経とうとしていた。
「それにしてもお上手でしたね」 「師にはまだまだって言われたけど」 「若君はまだ八つですから、それは…今時分なら十分過ぎる位なのでは?」
二刻余りの剣技の鍛錬は、高氏のいわば家督を継ぐまでの最大の責務であった。勿論六書など卓上の勉めもあるのだが、高氏自身の姿勢にしても足利家の求め方にしても、あからさまに前者の比重が大きい。それがなんらかの理由に基づくものなのかどうか、自分は知らない。ただその事実自体は明白であり、つまりはそれに付き従うのが今の自分の最大の責務でもあった。
高氏が足利家の采配を握る様になれば、自分はその傍らで常に高氏の意になるよう取り計らうのが役目になるのだろう。だが、それはあくまでも高氏が家督を継いでからの話だ。高氏がたった八つであるのと同様に、自分とて未だ十三である。学ぶべきことは多く、また父の死んだ今の自分には高家での任もあった。
だから主と決めたと言っても、毎日、日がな一日高氏に付き従っているというわけではなかった。大体は高氏が師と行う剣技に付き添い、そして日によってはその後室で幾ばくかの時、書でも共にすることがあるくらいだ。何も改まって執り行うことがある訳でもなく、強いて言うなればこの幼い主の何らかの癖だとかそういったものを測ることぐらい。それにしても大した重荷ではない。詰まるところ極々恙無く、日々を過ごせている。…あれほど畏まって受けた任なのに、と少しばかり拍子抜けもしたが。
「握りが甘いって、」
こう、と師の真似をして手振りだけで刀を振ってみせた高氏は、納得がいかぬ顔で両手を見詰めている。若君ならすぐにお出来になるようになりますよ、と笑ってやれば嫌みの無い笑顔でそれもそうかなと頷いた。
斯うして気安く言葉を交わす主に、そろそろ慣れてはきた。大体屈託のない笑いを浮かべる高氏は、実際のところ実の弟より余程扱い易い。感じていた筈の何らかの抵抗はいつの間にか霧散していたし、寧ろ只管明るい主に何を憂慮する必要も無いのだ。
庭をゆっくりと歩きながら、横の高氏の様子を窺う。
「今日は如何なさいますか」 「うん、今日はいいよ」 「そうですか」
書の鍛錬に関しては、大抵高氏の気まぐれでやるかやらないかを決める。何しろ自分に断る権限は無いのでそう言われれば従うしかないのだ。それでいいのかと一度高氏に訊ねてみたら、何を疑問に思うのかと逆に不思議がられてしまったのでそれからは何も言わずに受け入れることにしていた。
「じゃあ、」 「……あ、はい」
高氏の室と門に向かう路が分かれる地点まで来て、くるりと高氏は此方を振り仰ぐ。漆黒の双眸は何時見ても煌めくように輝いていた。にこりと一つ笑い、すたすたと歩み去っていく。颯爽としていても幼い後ろ姿を見送ってから、静かに息をついた。
もうひと月も、側にいる。主の挙動にも慣れてきた。なのにどうしても拭い去れないのは。
…ただ案じる様な貞氏の瞳。
高の館へと歩を進めながら、ぼんやりと空を眺めていた。
…これで、いいのだろうか。父は自分も足利の家に全てを捧げることを願っていた筈だ。そしてそれはきっと難しいことではない。高氏は主として申し分ないし、このまま幾つか年を重ねれば北条を支える為に働く高氏の、助けとなる位には智恵も回るようになるだろう。何ひとつ案じる必要など無い、なのに。
「…何なんだ」
貞氏にはあれ以来会えていない。貞氏本人が言うように本調子では無いのだろう。出仕を続けつつも度々臥せることがあると聞いていた。
貞氏は、あの時何か酷く言いにくそうにしていた。高氏の某かを確かに案じていたのだが、未だに自分には訳が分からない。穏やかな日々は何事もなく過ぎていく。
父が、殿の御為にと言う時には何時も何処か遠い目をしていた。あの時の父が何を考えていたのか、結局知ることはなかった。
苛立ちに似た気分に、足元の小石を思い切り蹴飛ばす。なにかひっかかっているのに、何が気にかかるのか、それが一番分からないのだ。
腹立ち紛れに、何時もの様に高氏の様子を思い描く。斯うして高氏に付き従い日々を送るようになってからは必ず一度はそうするようにしていた。その日一日の様子を思い出しながら、何が変わっていくのかを確かめる。こうしていれば何時しか父の、貞氏の真意が分かるようになるだろうと漠然と考えてのことであった。さりとて大したこともしていないのに、そう劇的に変わるものがある訳もない。いつも他愛のない言葉を交わすだけだ。そういえば高氏はいつも、ひのひかりのように笑う。
「あ…」
ふと提げた荷の中に入っている書のことを思い出す。
手慰み程度に書を紐解きながら、高氏は詰まらないと悪態をついていた。難しい、と口を尖らせた高氏の前に広げられていたのは確か孫子だった様に思う。というより高氏が進んで手に取る書など幾つかの軍法に限られていた。確かもう少し砕けた書があったと思う、と言えば巫戯気半分にそれなら私にも分かるか、と高氏が返したのが一昨日のことだ。
館で見つけて持ってきたのだが、忘れていた。
「…」
別に高氏に頼まれた訳でもなし次の機会でもいいのだろうが、折角持ってきたものを其のまま持ち帰るのは何だか馬鹿馬鹿しい。それに今なら引き返しても大した距離ではない。少しだけ逡巡してから、来た道をまた引き返す。
どうせ今日は館に帰っても大した用も無い、それなら少しでもすべき事があればやっておいた方がいい。それに何か斯うして行き詰まっているのが、嫌だった。
ただそんな、些細なことだったのだ。
足利の館に辿り着き、高氏の室へと足を向ける。というよりこの館の中で知っている場所などそんなに無い。未だに慣れぬ事の一つはこの矢鱈と広い館でもあった。
「…、?」
いつものようにぐるりと中庭を抜けたのだが、どうやら曲がる廊を間違えたらしい。開けた奥の庭は高氏が普段剣技を行うところとも、違う場所であった。
引き返す為に踵を返して、ふと廊の斜めに折れた先に位置する引き戸が目に止まる。大抵はきちりと閉じているか、若しくは開け放たれている戸がそこは半端に開いていた。 下女が掃除でもしているのかもしれない。高氏の室までの路を聞ければ、わざわざ入口まで戻ることはないだろう。
中を窺いながら、その開かれた戸に手をかける。結構に広い室だ。思ったより横にひらけた室に、ぐるりと首を巡らせた。
「…あにうえ?」
不意に響いた声に思い切り肩が跳ねる。高い声だ、とだけ考え混乱したまま慌ててもう一度室の中を見渡した。するとそれにあわせたように衝立の向こうから、声の主がひょいと顔を出した。
「え…?」
驚きに目を見張る。そこに居たのは小さな童であった。咄嗟に何か言おうとしたが、それより早く上がった声に面食らって口を噤んだ。
「…、でてってください」 「え、あの」 「でてって」
狼狽して見つめ返すが、自分より相手の方が余程驚いているようで青ざめてさえいる。其の表情と、何より余りにすげない応えにますます混乱しながら、取り敢えず訳を聞こうと近付いた。
「入ってこないで!」 「あ…その、道を」 「…!」
怯えるように後退る童に、流石に足を止める。過剰なまでの反応は、意味が分からない。あの、ともう一度声を掛ければとうとう頭を抱える様にして俯いてしまった。
途方に暮れて、立ち尽くす。混乱の最中で何がどうなっているのかさっぱり分からない。
だから知る声が聞こえた瞬間は、確かに安堵したのだ。
「…!?」
自分が突き飛ばされたのだと気付いたのは、床に倒れ込んで肩を打ち付けた後だった。
「直義、」 「…ぁ…にうえ」
呆然と腰をついたまま、目の前の光景を眺める。座り込んだ小さな体を此方側から遮るようにして抱いているのは、確かに知っている背だった。涙混じりの声を宥めるように、幾度も囁きかけているのも知っている声だ。
けれど確かに肩は痛んでいて、そして突き飛ばした手を自分は確かに見た。
知っている、筈のその。
「わ…若君…?」
静かに振り向いたのは、間違いなく高氏だった。 なのに浮かぶのは見たことのない表情、笑み一つないその顔で眇められた瞳は何処までも冷たい色をしていた。
「どういうつもりだ」 「え、」 「俺の許しも得ずに何をしている」
聞いたことのない声は、打ち据える様な厳しいものだった。大体この年若い主はこんな口振りで話しただろうか。
「あ、の」 「早く出ていけ」 「え?」 「聞こえなかったのか?さっさと失せろ」
何を言われたのか理解出来ず、呆けたまま見つめ返す。するとあからさまに不快げに眉を顰めた高氏は、此方に歩み寄ってきた。その姿は見慣れたあの何処か幼いものではない、迷いの無い歩調であった。
「二度と此処に近付くな」
引き立てるようにして立たされ、廊へと押し出される。
音をたてて閉まった戸の前で、暫く凍り付いたように足が動かなかった。
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