高い音に続き、困惑した声が上がった。

「あ…」

刀を取り落とした高氏は、すぐさま膝を付き拾い上げようとする。だが打たれた掌に力が入らないのだろう、無秩序な音を立てて再度転がり落ちた刀を高氏は悔しげに睨んだ。

「力の限りに振るえばいいというものではないのですよ若、逸れればその様な剣筋は己に返ります」
「はい…」

項垂れた高氏の肩を軽く叩くと、壮年の高氏の師は刀を収めてゆるりと笑い掛けた。

「しかし今の踏み込みはなかなかのものでしたな、このままひと月も鍛錬なさればよく為合えるになりましょう」
「!はい…有難うございます!」

ぱっと顔を輝かせた高氏に、男は穏やかな顔で頷き返している。


いつもと何一つ変わらぬ光景、慣れた筈の日常だが、だからこそ据わりの悪い気分で目を逸らす。照れた様な笑顔で師を見上げる高氏が、果たして真に喜んでいるのかどうか怪しいものだと、そんな下らぬ思索ばかりが渦巻いている。
本当に日の光に似つかわしい顔で笑うのに。影を搏つが如くに、その真意を掴めない。巡り巡る思案にうんざりと溜息を吐く。刀の描く先だけをぼんやりと目で追いながら、高氏にどの様に声を掛ければいいのか途方に暮れた。


「高の、若に巾を」
「は、はい」

急に自分に向けられた声に、冷や汗をかきながら返事をかえす。水桶と真新しい巾を掴んで駆け寄れば、否応無しに漆黒の双眸と搗ち合った。赤くなった小さな手をとって、ゆっくりと冷やす。内心恐々と窺うと、何食わぬ顔で高氏はにこりと笑った。

「ありがとう師直」
「………いえ」

「では若、また明日」
「はい」

隙の無い仕草で礼をした男の後姿を見送ってから、そっと傍らの横顔に視線を戻せば、高氏は巾を握ったり開いたりして弄んでいた。

「…」

室に促そうとして言葉を飲み込む。此方に向き直った顔がその時笑んでいるか分からぬことに気付き、どうしようもない気分になった。








―…二度と此処に近付くな…―

昨日の事なのに、最早まるで遠い昔のことのようだ。それ程に目の前にある光景と、確かに見たあの斬りつける様な眼差しの鋭さはそぐわない。

僭越を叱るのでもない、勝手を責めるのでもない、あれはその様に自分の失態を取り糺したものではなかった。撥ね付けた言葉が、端的に示したのはもっと絶対的な意志の様な。

どうすれば、いいのだろう。主の勘気を粛々と受け入れればいいのか、童の癇癪だと許せばいいのだろうか。分を弁えろと叱られたと思えばいいのか、配慮が至らぬと恥じるべきなのか。



「…あの…若君、」
「何?」

軽く振り仰いだ高氏は、けれども何処か無愛想に先を促した。慌てて思案の纏まらぬまま、言葉を続ける。

「あの、…今日は如何なさいますか」
「じゃあ、室に行こう」
「……はい」

いつもは断る方が多いのになどと思わず問い直しかけ、必死に堪える。高氏はだが小さく首を傾げると、何も言わずに踵を返した。








よく考えてみれば、当然聞いたことはあった。貞氏の今の奥方との子は高氏だけではない。若には年の近い弟君がいると、父も言っていたし、別に誰からも殊更隠されたりなどしたことはなかった。ただ斯うして足利の館へ勤めるようになってから、その弟君を見たことは一度もなかったのだ。それどころか高氏の口からはその名を聞いたことも、その存在を匂わされたことさえもない。自然失念していた先の今回の出来事だ。

もし、ただ名を聞かぬというだけならそれはそれで得心がいくのだが。兄弟仲のまろく立ち行かぬは、大して驚くようなことではない。幼童、特に実兄弟では稀とはいえ、家督を争うは本人間だけの蟠りではないから、あり得ぬことではなかろう。

だが目の当たりにしたあの情景。小さな肩を抱く幼い手のひら、輝く黒曜の浮かべた瞑り。


目の前の卓に寄りかかるようにしている高氏に、視線を戻す。瞳を伏せて手元の書をなぞる表情が、思いがけず静やかで少しだけ肩透かしを喰らう。
高氏は何も聞いてこない。昨日のいきさつも、あからさまにぎこちない自分の態度に何を言うでも。

「……あの…若君」

…事の顛末など、それこそ弟君に聞いたに違いない。弔辞を述べようと機会をうかがっていた童に拍子抜けしたのは、ついこの前ではないか。

「…うん?」
「あ…」

…どうせまた自分の考えすぎなのだろうし、だとすれば口に出すのも愚かなのだろう。杞憂だ、こんな。

「あの、お聞きしたいことが…」
「…なに?」

けれども高氏の態度をどう受け止めればいいのか分からない。何故、何も言わない?何事もないようなことであればこそ尚更、某か言い繕うのが自然なのに。ぐるぐると回っている思索を意に解さないように、口が勝手に詮索を紡ごうとする。それを押し止めて、向かいに座した高氏を一度くっきりと見据えてから、ゆるゆると言葉を繋ぐ。杞憂なればこそ、一刻も早く終わらせてしまいたかった。

「…昨日は…失礼をば」

触れる事を恐れ、上擦った声が転がった。改めて叱責されるならば、それでいい。何も分からぬ中で途方に暮れるより、ずっと。



「何が?」
「……え?」


しかしそうして返された声音に悟るのは、己が失敗。



「…知らないな」



慌てて見返した瞳は、あからさまな不興を浮かべていた。昨日見た双眸が蘇り、思わず背筋が強張る。昨日まで、一度だって高氏は自分に権を振りかざしてみせたことはなかった。笑ったり拗ねたりと童らしい所作を見せるばかりで、思い描いた筈の高慢な曹司の姿を垣間見たことは、いちども。なのに今目前で冷めた様子で此方を見遣る高氏は、暗にそれ以上話を続けるなと言っている。
睨めつける目端に漂う圧に、小さく息を吸う。昨日、かけられた幾つかの言葉。此方を見やった烈火の黒曜、偽り無く伸びた足取り。…偽り、?

「…若君、何、故」
「…」

不意に足元から切り崩されたような気分に、ぐらりと目眩がする。稚く、快活な、ひのひかりが如くに笑う良家の若様。陰鬱な目で、らしからぬ気怠さを纏い此方を見やる童。こんな、演じ隠匿し、遮断して。何故高氏はそんな真似をするのだ。たった八つの童、政などからは今のところ縁遠い筈の。…昨日、そして今、向ける顔が高氏の真の顔だとすれば、今まで自分は一体なにを見てきたのだろう?

初めて目を合わせた瞬間の漆黒を思い出す。あの刹那凍り付いた温度に、浮かんでいたのは、諦念めいた無関心。

喉が絡みつくように重い。それでも衝かれるようにして言葉は零れ出た。


「昨日のは、その弟君でしたのですよね…至らずに申し訳ありません、あの…二度と不躾に室に押し入る様な真似は致しません。それで、宜しければ弟君にも謝罪を、」

「必要ない」

言い切る語調には色が無く、ばらばらと手中から零れていくものばかりが際立つ。

「で、ですが」
「些事だ、分かっているならそれで良い」

固い声には、聞きなれた筈の気安さの欠片も無い。急に水位を増し決壊したものが、頭の中を蹂躙していく。何故か此方を見たあどけなさに苛立ちを覚えたことを今更に思い出す。昨日拒まれ、突き放された肩が鈍く痛んだ。



「…若君は、私を、お厭いなのですか?」



窺うように舌先に乗せた響きとは裏腹に、顔が強ばり引き攣るのが自分で分かった。辛うじて口元に刻もうとした笑みの兆しは頬を卑屈にさざめかせただけで、何処ぞに消えていく。自分で口に出したことなのに、その言葉の響きの厳しさに鋭い痛みを覚える。それならば全て、納得がいく。裏返されたかのような変貌、見据えた目の強さ。そもそも高氏を掴めないと思った事にしても、取り繕われた姿故だとするならば。ゆっくりと息を吐いて、ぎこちなく体勢を正す。押し出した声が震えているのが自分でもわかった。


「…今まで、至らぬ事在りましたら改めたく、思います…ですから、若君のお心の内をお聞かせ願えませんか」

「何故?」
「い、今まで私にお心偽って居たのは、私めの不明が故、なのでしょう?で、ですから…御不興の点改むる為に、腹蔵無き御言葉を頂きたく」


無言でちらりと此方に視線を呉れた高氏は、一度向かい側へと顔を背けて再度ゆっくりと此方へ向き直った。凝っと此方を見た瞳は、光の宿らぬ絹のような漆黒。


「…別に、何も」
「!き、昨日の事にしても、若君が弟君に私を近付けたくないと仰せでしたら、あんな事は致しませんでした…だから、」

瞳に雷光を走らせた高氏に、思わず続く声を飲む。だが高氏は不意にうんざりと肘をつき、卓に撓垂れ掛かり吐き捨てる様に顔を歪めた。



「五月蠅い」

「……、?!」
「身の程を知れ、差し出がましく」



茫然と見返せば、呆れた様に高氏は溜め息を吐いた。

「お前は、俺の執事となるのだろう?」
「は、はい」
「なら余計な口を叩かず、お前の分を果たせばいいんだ」



…父の遺した物は、何だったのだろうか。父は貞氏に何を捧げ、如何にして接したのだろう。寄る辺無い気分に、頭の芯が灼けたような気がした。


「…ですがっ!私は若君の執事です…生涯お側にお仕え致す所存です…!そんな、私に繕われずとも、」

「俺は足利の跡取りとして振る舞い、お前はそれに付き従う。何の不満がある」
「そういう、事では」
「何が違う、お前は師重の跡を継ぎ、俺は父上の跡を継がねばならない…それがお前の望みだろう」

胡乱な眼差しに、ぎくりと肩が揺れる。父の遺志、それに殉ずる私は、この主に何を捧げ何を奪われる。どのように接すれば私は、私の、望みを叶えられる?確かにずっと考え続けていた、事だ。主として相応しい童の下で、父の様にますぐに生きられればと。高氏の突いた欺瞞は確かに、自分の抱えた矛盾だ。私が求めた主像なのだから、文句を言う筋合いでは無い、という高氏の言葉はそれ故に深く突き刺さる。
だけれども、たかが八つの童が何故こんなにも全てに警戒を露わにして己を取り繕わねばならない。ましてや此処は今日の食を血眼で求める貧民窟などではなく、絹の衣や鼻先を擽る典雅な香までが調えられ、その権を恣にする名家の中なのだ。


「呼んだ時に、来ればいい」

その時だけ、と平坦な声で続けられた言葉に思い出した言葉。以前笑顔で、同じ台詞を紡いでいたことを。…呼んだら来てくれるな、と確かめるように告げられた。
最初から、撥ね付けるまでの強さで示されていた命令を、今更に理解して。

「…っ!」

勢いの侭に立ち上がって、ぶつかった卓が揺れる。急な自分の挙動をだが高氏は冷めた目で見ていた。



「何で、何でですか!?其処まで私を煩わしくお思いなら、何故貞氏様が御言葉をすんなり受け入れたのです?若君が、嫌だと、一言仰せになれば!貞氏様とて私に若君に仕えろとは」



はっと我に返って、息を飲む。
―…私ではなく、息子に仕えて欲しい。それを忘れないでくれ。息子は…―
脳裏に蘇った貞氏の言葉に、さっと血の気が引く。

高氏は暫く黙っていたが、やがて押し殺した声で嗤い出した。

「くく…父上の命なら逆らえまいな、ああ可笑しい…」
「っ、若君、其れは」
「俺とて、お前が嫌だと言い放って許される立場には無い」

強められた視線が、切る様に肌を裂いていく感覚にとらわれる。ぎらぎらと輝いた漆黒は、凄まじいまでにますぐに此方を見据えていた。


「俺は足利を継がねばならない…その為には何だってする。お前如きに、かかずらう暇は無いんだ」


不意に。不意に浮かび上がった言葉を、そのまま口に出す。先程から度々、高氏が何に反応するのか、気付いている、気付かされていた。だから言っては、いけなかったのに。何か酷く投げやりな気分であった。自分は結局何も、分かってなどいなかったのだから、壊れるものなどを今更図ることもないなどと。

つりあげた口の端から零れた言葉は、毒々しく目の前の童へと降り掛かる。




「それは…弟君が為にですか?」



言葉尻に纏わりついた明け透けな嘲弄の色に、投げ出した諦観に。凍り付いた室の空気は粉微塵に砕け散り、そして残ったのは一握りの敵意だけ。

純粋なまでの、美しい瞋恚だけで。








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