戸を開けたその時、彼はすらりと伸びた肘の先をこちら側に向けて書机に突っ伏していた。
「…直冬様?」
皺枯れた己の声は、果たして直冬に聞こえているだろうか。
燭台の炎は少しばかりの光輪を描いていたが、夜と影を分けることはできない。
踏み込めぬままその様を案じる。
空いたわずかな間にも、闇は直冬にのしかかっていく。
曝された背は記憶の中の直義より幾分か広かったが、何かを思い出させるような痛ましさがそれを削いでみせる。
傍に投げ捨ててあった掛け衣を手にして近づく。
風を起こさぬようにそっと掛けようとすると、伏せた頭の下から小さい声がした。
「起きていますよ」
「……左様です、か」
囁く直冬の声は少し擦れている。後に続く言葉はない。
暗い藍の肩口を隠すように衣を落しながら、腕の下敷きになっている書面を見つめた。
途切れた文字
いつからこうしているのだろう。
書き掛けのまま置かれた筈の筆は、まだ乾き切ってはいないが。
「余りご無理をなさってはいけませぬ」
直冬は頭を上げなかった。
返事もしない。
最愛の義父が死んでから、彼は他人への反応も、他人の反応も呆気なく切り捨てるようになった。
突き返す態度を見せることは今に始まったことではない。
だが直義を失うまでは、その冷たい表情の中に僅かな戸惑いを押し隠していたのが見えた。
数奇な運命を背負うこの青年に肉親と同じ程の情を覚え、そしてそれを無くすことなど自分にはもうできまい。
だが全てを失った彼の『血』は、歪なまま凍り付いて
音を立てて割れた。
「ただ今戻りました」
頭の中で鳴ろうとするその音を打ち消すように、廊から落ち着いた声が掛かる。
入れ、と言った蚊の鳴くような声を聞いた盛宗が戸を開けた。
すぐにその場に膝を付く。 淡々と見えるこの流れを、盛宗は驚く程丁寧な動作で作り上げている。
「…遅い」
「申し訳ございません」
吐き出された直冬の声は、苛立ちというよりも気怠げだった。
突っ伏したまま身じろぎすらしない主に、だが盛宗は更に深く頭を下げる。
「…いつもの」
「?」
誰に向けられた言葉なのかわからず首を傾げる。返事をしかねていると、直冬はまた黙ってしまった。
声を掛けようと身を屈めて、その様子の不自然さに気付く。
背が震えていた。
そしてその振動に紛れ込むのは、…笑い声だ。
「…直冬、様……?」
傍に膝を付き横からその姿を伺う。
詰まった笑い声。
直冬は敷いた手の甲に、額ではなく口元を押しつけたまま笑っていた。
思わず目を見開く。
目蓋に力を籠めて、恐れになる前のそれを何とか閉じ込めた。
小さく跳ねる肩を収めた直冬は、呆れたようなため息をついてからようやく頭を上げる。
血走った目は強く、傲慢さすら感じさせる程挑戦的だ。
「役に立たぬ感状を届けさせた」
呑み込まれないように、と念じて見つめ返す。
この眸に捉えられて、そのまま引き摺りこまれた者達を知っていた。
でなければ縁も持たぬ遠い動乱の地で、彼が今日まで生き永らえることはなかっただろう。
「……何度も言うようですが、お休みが足りないのでは?」
孕んだ毒の刄に気付かぬふりをする。それを既に見抜いているかのように、直冬は目を細めた。
この表情の作り方は直義と同じ。
だが芯の通った真直ぐな静けさが、彼には全く無い。
「書面がなかなか浮かばなくて。…あぁそうだ。頼尚殿に相談してもいいですか」
「…何なりと」
返事をすれば、直冬は悪戯めいた微笑みを浮かべて姿勢を正した。転がしてあった筆を手繰り寄せる。
踊るような指の動きが躁病のようで薄ら寒かったが、筆を持つ手つきは手本の型通りだ。
「何の書を?」
「たいしたものではないのです」
掛けてやった衣を掻き合わせる長い指が、ただ一つ何も知らぬように無垢だった。
補足(反転) この話の人称である小弐頼尚さんはいつか本編にでてきます(一応直義陣営としてお梅が担当してます)
仁科盛宗は冬さまの部下。そのうちちゃんと登場させる予定。
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