「賀名生への使いに持たせるものです」
「……まさか」

「私も仲直りがしたい」

甘えるように戯けたすぐ後、漆黒の眸には冷たい力が籠もる。


有無を言わせぬそのちからを振りかざして見せれば、心の内は読まれまい。
使い慣れたそれで駆け引きをすることを、躊躇わない。

皮肉にも程があるのだ。
名といい、血といい、その力といい、
今の直冬が生きるためには全て、尊氏のものが必要だった。


「何か不満でも?」

浮かせたままの筆から、墨の雫が一つ垂れる。直冬は視線を落として、ああ、と声を洩らした。


「他に手立てはありますまい」
「でしょう?」

優雅に左手で頬杖をつきながら、紙に押し付けられた筆が毒々しい斑点を描いていく。
怠惰に繰り返される動作で紙が墨を吸っていくと、弛んだぺたぺたという水音は徐徐に乾いていった。
掻き回すように筆は動き続ける。それは治まらぬ、どす黒い螺旋だ。
出口はない。だが引き寄せられる。
やがてその軌跡からは、濡れた黒すら消える。


取り替えせぬ壮絶さ


きつく、胸が痛んでいた。
無抵抗に汚されていくその色が、ずっと自分を咎めている


「ですが…」

知らぬふりをするな
見ぬふりをするな

彼が黒い闇に、
飲み込まれないように


そう願うのは、自分と、
もう一人――…



「某は敢えて申し上げたい」

「…どうぞ」

直冬が、動きを止めて目を合わせる。息が詰まる程の威圧を身に受けても、今の自分は怯まなかった。
筆を置いた音が乾いて落ちる。それは走った亀裂のように、彼と自分の空間をぐっと締め上げた。

訴えたあの色に、ただ言葉を乗せればいい。
代わり、などと慢るつもりはなくても、それはもはや自分の命であり願いなのだ。
沸き上がる感傷を苦く笑う。
老いた己の安閑なき歳月は、確かに『恐れ』を遠ざける、はずだが。


「彼方は貴方様を容易く受け入れる。だからこそ容易く切り捨てる。…この意味がおわかりですか?」

斬る程の敵意が一閃走る。それでも隠さない。降りた沈黙にまた、彼も知り尽くした続きを押し出す。



「御義父上の道を、なぞるおつもりか」

「黙れ」


苦しめたくは、ない。

白い腕が頭を抱える。
なのに彼は、自分から視線を逸らさなかった。

人らしい光
そんな場違いの安堵に、自分はただ目を細める。


「わかりきったことを聞くな。愚誠は必要ない」

「わかりきったこと、と?」
「…ああ」

「その言葉を如何に受け取ってもよろしいのですね」

「構うものか」

怒りに眉を吊り上げて立ち上がる。
見下ろすその表情が、止まって見えた。

「万が一万事が上手く運んだとて、貴方様の望むものはもうありませぬぞ」

「・・・・・・・・だから?」


切るまでの冷たさと、眩暈がするほどの鮮やかさ
匂やかな容姿に見え隠れするこの二つの危うい均衡が、時々異常なまでに人の目を引くのだろう。
だがおかしなことに、情が昂ぶったときの彼はこれと全く違うものに見えた。

熱に浮いた眸は焦げるようだったし、形が掴めない怒気は鮮烈さとはかけ離れている。
複雑に絡んだ行く筋もの線は全て、まるで知らないものだ。

「今の私は、もう何処にもいけない」

盛宗が顔を伏せたまま体をずらす。
戸口の傍の空間が浮き出る。支配されるためのその場所は、月華で仄かに青白い。


「だからこそ、今ある全てを知らなければなりません。」

「何を言っているのかわからない」
「いいえ、お解りの筈です」

「知らぬと言っているだろう」

焦るようでもあった。
乱暴な音を立てて直冬は戸を開く。
無闇にほしがったひかりの中に身を沈めて、肩ごと息を吸う。


何故なのだ。こめかみが押しつぶされる。今更こんな眩暈など覚えている必要はない筈だ。

わからない

そうして振り返った顔が、いつにもまして艶やかであるという事実。


「義父上を渡したくない。それはあの人が死んでしまってからも同じだ。だから、尊氏を殺すよ」


殺す、と。
遠い口元が笑う。
甘い香りすら、漂わせてしまうのは


「直義様は望まれない」

「そうかもしれない。義父上は優しいからね」
「ならば」


「だから言ってるでしょう、頼尚殿。たとえどんな私でも、『優しい』義父上は必ず許してくれる」


問い返せない己からすぐに顔を背けて、直冬はぼんやりと夜を見上げる。
切り捨てる刄を向けられたのは自分。誰も近付けぬ、もう一度告げるかのように。

照らして注ぎこむ淡さの中で、それでも彼はひかりに溶けることができない。

「・・・優しさとは、許すことだけではありませぬ」

「うん。皆がそう言うのだろうな」

険が消えた声は、今度はやたらに素直だった。
そしてそのあどけなさ故に、誰に向けての言葉なのかを見失ってしまう。
少年に戻ったかのように、直冬は勢い込んで続きを乗せようとしている。

「でも、私にとっては全てだった。会ったときからずっとそう思っていた。それが何故なのかって、言葉に出すまでわからなかったけれど」

もう掴めない
自分が見ているその前で、彼はまた、こうも容易くひとりになる。



「私を許してくれたのは、あのひとだけだった」



輝かずにひかる、その視線の先



「あのひと、だけだった」



それ以外を、見ようとはしない。


哀れみに揺り動かされる。哀しみと、呼べるのだと思った。
戸に寄り掛かる背に近づく。
夕立の湿りを含ませる夜の中で、確かに今宵の月明かりは優しい。


「もう休まれませ」

強く静かに告げる。
直冬は思い出したように、まただらしなく開いた襟元を引き合わせた。

「頼尚殿、」

空に向かって投げられた声が、擦れたまま自分の名を呼ぶ。


「先程は口が過ぎました」

首を横に振ってみせる。たとえ口先だけであっても、消えることはない。
まだ自分に礼を保とうとするのは、紛れもない彼自身への抗いなのだろうが。


「こんな老いぼれを気遣う必要はありませぬ」
「老いぼれ、ね」

直冬は口の端だけで笑った。
不器用で乾いたその表情が、今宵自分が見たかった、彼の真実だ。


「せめて眠っているときだけでも夢が見たい」

「…それは、」

「吐き気がするぐらい、醜いうわごとだろう?」

「何をおっしゃられるか。…醜い理由などありますまい」

沈黙が降りる。
ひたすらに遠く、それでいて尊い無の隙間が落ちる。


「ならば、愚かと言い換えようか」


涙など流れていない
感情すらよくわからない

なのに悲しいと、
それだけを思わせる横顔は、いつもぞっとする程美しい。

「今言ったことは忘れてください」

直冬は戸に体を寄せたまま、ずるずると座り込んだ。
わかりました、と言葉を返すと、曖昧に頷いてから目を閉じる。
そしてそれきり、動かなかった。




傾いだ頭は壊れた骸そのもの。
見下ろすそれはあまりに悲しく、祈るように庭先に目を遣る。




優しいひかりに満たされながら、月露が一つ、滴り落ちた。

この子の代わりに泣いてやるのか
悼む横顔を重ねる限り


誰が仇などおらぬとしても、焦がれる狂気は赦しを求む。


(―――・・・この尊氏を・・・置いて一人死ぬことが満足か)

怒りに打ち震えた手は何を壊しただろう
そして唯一その手だけが、今の彼に届くものではないのか


答えを知るものは尚のこと遠く。佇むそのまま、ふと痺れるような疲れを感じていた。

ただ自分は、一つだけ知っている。



その優しさが、縛るのだ




『のこすためならば死んでもいい』



直義はあの時、そう言った。











補足(反転)

いくら小弐様でもこんな冬様は正直手に余る。勿論、庇いたいだろうけど

next(未開通)
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