「海、はいいなあ」
「別に、初めて見るわけではなかろう。丹後には連れて行ってやったことがあるはずだ」
そういえばたった一回、連れて行ってくれたような気もする。何かの用事と挨拶のついでに、だったと思うが。
「そうですけど。いや、でも全然違いますよ。こっちのが、人に近い海、というか」
息子の返事を聞いた憲房は、指先で、よく手入れされた鼻の下の髭を触った。それは、彼が思案している時の癖だった。
「…そうかもしれん」
低く呟いた父の眼は、刺すように真っ直ぐ重能を見ていた。値踏みするような、それでいて少し感情的な鋭い視線だった。重能は、憲房のこのような視線に慣れていた。昔からそうだ。
顔を前に向けなおしそのまま馬を進め始めた憲房の、後に続く。
本当は早馬の如く駆けるのが好きなのだが、その時はそうもいかなかった。憲房に「鎌倉に奉公に行け」と言い渡され、いざ参らんとする道中。自分の後ろにはずらずらと、家人やら荷やらの列が続いている。
体裁のためか知らないが、妻も娶らされた。そしててっきり、持つもの持たされて、一人追い出されるのかと思ったが、憲房も一緒に付いて来た。
実父を亡くした自分を引き取り、養子として今日まで育ててきたこの男が、一体どういうつもりでこの全てを与えてくれたのかなんてわかるはずもなかった。 重能は、そんな憲房の背中を、初めてまともに見つめた。
身体はもう彼を追い抜いていたから、彼の背中が自分より小さいことを知っていたが、悠然としたたたずまいと立ち振る舞いが、決して彼を追い抜けないことを示した。たまにしか顔を合わせることはないが、それでも、だった。
『髭ってどんなやつなの?』
彼は昔、それこそ憲房に引き取られてまもなくの頃、義理の兄となった憲顕に、聞いてみたことがあった。
『そんなことが、気になるのか?』
「お前みたいなやつが、」と憲顕は一笑し、手元の書から離した視線をちらりとくれた。横の侍女が大きめの扇でふわふわと優しい風を送り続ける中で、たった十二歳のくせに、一人前に書をめくっている。
あまり真剣そうではないが、憲顕はよく書を読む童だった。そして、気だるげに書机についた肘が、やたらと大人っぽい『兄』だった。一時期自分を引き取っていた別の家でも『兄』はいた。しかし彼らはだいぶ年齢としても大人であったし、相応のおおらかさと優しさを兼ね備えた本物の大人っぽさを持っていて、重能の感覚でなんら違和感を覚えることはなかった。
ただし、目の前の憲顕は違った。
歳は三つしか変わらない。自分とそんなに差がつくものをたいして持ち合わせていないということも透けているのに、今まで見た事がないような達観した気配を持っていた。 実際、彼が賢いということも何となく知れていた。別に、何か難しいことを知っているわけでも、教えてくれるわけでもなかったのだが。
『お前みたいな、ってなんだよ』
『他人に興味がなさそうってことだ』
重能はぐっと息を呑んだ。真正面から、しかし何気なく、そんなことを言われるとは思わなかった。 しかし、憲顕からは自分への敵意などは感じられなかった。その証拠に、彼はおもむろに顔を上げ、自分の問いに答えてくれた。
『私とお前の祖父は、頼重という。お前の本当の母上は、この頼重の娘だ。お前をここより前に引き取っていた重顕も、頼重の長男。そして、髭は、頼重の三男坊。』
『・・・んん、』
重能は首を傾げた。一つ一つのことは分かるが、それをつらつらと歪な言い方でつなげる兄の意図は読めなかった。
『つまり、お前の母上と髭が兄弟ってことだから、髭はお前の叔父ってことだ』
『ふうん。成程な。うん、・・・・というか、そういうことはどうでもいいけどさ』
分かっているって、と。憲顕の目は意地悪く笑っていた。
『もう一度言ってやる。頼重の長男は、重顕。髭は、三男。・・・ただし、家督を継いでいるのは髭だ』
『、・・・ん?それって?』
侍女の手元が、僅かに、止まった。
『そうだ。つまり、「そういうやつ」なんだよ』
頼重には、重顕、頼成、憲房という三人の息子がいた。それでも、嫡流となったのは憲房だった。
しかし、兄の答えを聞いて、重能のもとに湧き上がったのは別の疑問だった。
『ねえ、じゃあさ』
『んー?』
『俺の本当の父上は、なんだったの』
憲顕は書に落としかけた視線をまた、弟に戻した。何かを言いかけてやめ、珍しく戸惑ったような気配があった。
『知らん。』
『・・・そうなの?』
『よくは、わからない』
『よく、じゃなくてもいい』
珍しく食い下がる重能の様子に、憲顕は始めて、憐れみのようなものを感じた。
屋敷に来たこの新しい弟は、とてもあっさりとした思考の持ち主だと思っていた。誰に甘えたがる様子も、何か特別な執着を示す様子もない。ただ、武芸をやるときは楽しそうで、何かを食べるときは嬉しそうだった。感情表現は素直で、何を溜め込んでいる様子も見当たらない。
しかし、それが逆に異常にも感じられた。
父とも母とも、兄弟とも別れざるを得なかった九歳の童。
前の家では、とても荒れていて手が付けられないということで父が引き取ったと聞いていた。なのに、実際に会った彼は、とてもすっきりとした表情をしていた。
『お前の方が、知ってるんじゃないのか』
『俺、父上が、寺の仕事してたってことしか覚えてないから』
『ああそう。藤原、いや、上杉云々というよりは、勧修寺に所縁のあったお方らしいな。それしか知らん』
『そう。』
憲顕の、「おかた」という言い回しが心に残り、素直な驚きすら感じた。亡くなった父に対しての、憲顕の丁寧な物言いに好感が持てた。
『最近さぁ』
『ん、』
『父上にもらった、お守り失くしたんだ。』
『・・・ふむ。』
『そしたら思い出せなくなってきた。最初の、父上のこと』
重能のあまりにもあっさりした口調と表情を、憲顕は不思議に思った。釣り目気味の鋭い眼は、ただ鈍い黒を湛えている。強がっている様子も、何かの感情を隠している様子もない。直線的な、ただの事実だけを告げている。
『父上に聞いたらどうだ。色々知っているかもしれないぞ』
重能は、お前が今知らないならいいよ、と鼻先を掻いた。屈託のない少年らしさが、その仕草にはあった。そしてあぐらを解いて立ち上がり、ぺたぺたと足音を立てて廊に歩いていく。童の後姿はやはりあどけなく、安堵した憲顕はその背に軽口を投げた。
『なんだ、照れる必要は無いぞ。』
重能は振り向いた。そして、こう言った。
『忘れるってことは、たぶん、もういらないってことなんだよ』
釣り目気味の鋭い眼はやはり、ただ鈍い黒を湛えていた。強がっている様子も、何かの感情を隠している様子もなかった。
ただ、何か大きなものが抜け落ちているかのような喪失感を、憲顕は重能の背後に見た。しかしそれは悲しさや痛ましさというよりも、少年が過去から得た全てであり、彼以外の誰にも相応しくはない、強さのような気がした。
鎌倉には、まだ二十歳の彼が住まうには、十分すぎるほどの屋敷が立っていた。
竹丸に飛両雀。ところどころにあしらわれた上杉の家紋は堂々としていて、それを見上げる父憲房の顔は何処か上機嫌であった。
憲房はよく鎌倉を訪ねてはいたが、足利の客人としてだったので自分の屋敷を持っているというわけではなかったのだ。妹の清子が現当主の妻なのだから、何に遠慮する必要もないのは当然であろうが。
「嬉しそうですね、父上」
家人に荷を降ろさせている間、てきぱきと指示を出す父にそう声を掛けた。
憲房はにやりと笑い、目を光らせた。獰猛な獣のような気配がその表情には宿り、いつもの澄ました表情より余程いいと重能は思った。
「これはお前の屋敷ではない」
はあ、と重能は適当に頷いた。言わんとすることは何となく分かっていた。
「我らが上杉の支え柱だ」
「・・・分かっていますって。」
大げさに肩を竦めて見せた瞬間、がくっと身体が揺れた。まるで喧嘩のときのように、父が両腕で自分の襟をひっつかんで引き寄せていることに気付いた。
「これは大義だ。重能」
肉親に向けているとは思えない、容赦の無い凄みである。しかし、重能は怯えるでもなくだまって見返していた。
「高に引けを取るな。ただの一度たりともだ」
「はい」
父はゆっくりと力を抜き、口の端を吊り上げた。そして、身体を離してから「足利に挨拶に行く支度をしろ」と命じた。
さっきのぎらぎらとした目の光だけを記憶に焼き付けて、重能はもう一度はいと頷いた。
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