爪先に力を入れて引き返してみても、縺れた足は結局、兄に引きずられて前に進む。



「駄目です、」

「自分の家の倉に入って何が悪い」

でも、とまた続けようとする直義に、しっ、と人差し指を立てて黙らせた。
何かを言いかけていたのに、無理やりに引き結ばれた弟の唇を見て、高氏は満足そうに笑みを深め、また手を握り直す。

「大丈夫、俺が付いてる」

だからお前は何も心配しなくていいんだ、と何時もと同じように言い聞かせた。そうすれば、弟は何時もと同じように自分に全てを任せるのだ。



外で番をしている従者の前に来ると高氏は、外向けの笑顔を浮かべる。
まだ十ニを過ぎたばかりの童が浮かべる屈託の無いものであるそれを、ここぞとばかりに咲かせた。


「見たいものがある。開けてくれるか?」

「若君」

敬礼を取った警護の男は、高氏の後ろにくっついて来た弟の存在に気付き、物珍しげに窺った。
屋敷の中に勤められるような近しい家人ならともかく、直義を間近で目にするのは稀だ。
高氏に比べて、顔貌、仕種を始めとした全てが大人しい童で、実際より幼く見えた。

兄の背に隠れながら、時々ちらちらとこちらを見ている。
好奇心で男が身を乗り出すと、それを遮るように高氏は歩を一つ進め、続ける。


「とても珍しい書が此処に入っているんだって。見てみたいんだ。いいだろう? 」

盾突く訳にもいかず、躊躇いを表情だけで示してみせる男に、高氏は内心鼻を鳴らした。
目を見開き、わざとらしく肩を竦めてみせる。

「見るだけだ。何もしない、から。」


結局、重い戸は開かれた。









見回した視界に目的のものが無いとわかると、高氏は草履を脱いで近くの棚によじ登り、手当たり次第探し始めた。
きっとどれも目を見張るぐらい、価値の高い品ばかりなのだろう。
今ぞんざいに除けた陶磁器は相当に古いものだろうし、開いてみて投げ置いたその書も。

廿楽を寄せたり、その蓋を持ち上げたりする度に、埃やら塵が舞い踊る。

慌ただしい兄の様子を、直義は後ろからもどかしく見上げていた。
僅かに開いた戸から光が入るものの、やはり中は薄暗い。詰まる空気の悪さはもとより、 この空間そのものが、まるで入る者を待ち構え口を開けていたようで気味が悪かった。


―…眠っていたものが薄目を開いた。皆動きを止めて私達を見ている。
そんな感じがしていた。



「…こわい」
「ん?」


振り向いた高氏に、続きを聞かせようと口を開けた途端、喉にちりちりとしたものが絡み付き咳込む。 高氏の表情は、一瞬にして険しくなった。
高氏は、身体の弱い父に似た弟の咳が、気になって仕方が無かった。

「離れてろ」

「…平気です」


「駄目だ」


硬い眼差しと、命ずる口調に、直義は絶対に逆らえない。

離れたくないのに、と。不安にせき立てられている心を胸に仕舞いこんだ。

黙って数歩下がった後、座ろうかなどと考え、結局躊躇う。着物が汚れるかもし れない。それに床の近くの方が、空気が滞っているらしく、灰色の荒い粒が霧を作っている。

手持ち無沙汰で距離があき、直義は妙にそわそわしていた。


――…私のことなどもう忘れたかのように、背中ばかりを向けている。
埃で汚れた兄の踵が見えた。
途方も無いやっかみを起こす自分を厭い、また知らず人差し指の爪に歯を引っ掛ける。舌が触れた先では泥のような味がした。


気持ちが悪い。何をしても落ち着かない。



「…これかな、直義」

名を呼ばれて我に返り、手を背の後ろに隠す。木箱を抱えながら身軽に降りて来た高氏は、不思議そうに彼に歩み寄った。
そして落ち着きの無い横の弟の様子にばかり気を取られながら、そぞろに中の古い紙の筒を取り出し、指を掛ける。
黄ばんだその色、裏に透ける、焦茶色の文字。先程から感じる全てを、統べているかのような気配。

直義の意識はとり憑かれたように、みるみるその文字に吸い寄せられていた。それでいて得体の知れない恐れに、震えていた。


「どうした?」


開かれていくにつれ、青ざめていく弟の顔色に、高氏は無造作に手のものを床に放り、細い両肩を掴んだ。 じっと伺った先の瞳はぎこちないながらも忠実に、孤を描いて落ちる軌跡を追い掛けたまま止まっている。
あの文から、目を離さないのだった。


「直義?」


そもそも高氏にとって、こんなものはどうでもよかった。


禁忌、と言われる或る言い伝え。

先日鶴岡八幡に参詣した帰り、源氏ひいては足利の氏神である八幡、そのゆかりを語ってくれた別当がちらりと小出しにした話を、弟が酷く興味深げに聞いていたから、見せてやろうと思っただけだ。

「出よう」


石のように硬くなった身体の腕を引き、床から足の裏を引きはがして連れ出した。



高氏は一度も、地に伏しているその未来を振り返らなかった。







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