四つの脚が砂を蹴り上げる度、穴のような跡が点々と刻まれていく。
少し先まで駆けたところで馬を降り、海風に髪を靡かせながら前に歩んでくる。
その確かで大人びた足取りが、直義にはひたすらに眩しく、完全なものに映る。
ほら、と馬上に伸ばされた手を、気恥ずかしく思いながら取れば、にっと微笑が
作られた。そのまま一気に引き下ろされて、転げ落ちる。
「わ、!」
強く身体を叩き付ける様を思い描いたのに、痛みが無い。代わりに、温かくしな
やかな感覚の上に落ち込んだ。
「…ごめんなさい」
己と砂浜に調度挟み込まれている身体から慌てて降りて、頭の横に座る。
仰向けになっているその頬を撫でれば、ぱらぱらと砂が落ちた。
「はは、っ」
指の下で、笑う頬が震える。突き抜けるように高らかな喜色の意味が分からず、
直義は不安げに兄を見詰めた。
「痛くなかっただろう」
「…はい。でも兄上が」
「何とも無い。」
高氏は勢いよく身を起こし、き、と弓を引くように目をすぼめた。
この途方も無い砂地の果てを引き寄せたいかのような、強く、重い光。
「…俺はこんなに強くなった。なぁ?直義」
まるで脅すかのような低く暗い響き。それでも高氏は屈託の無い、この年十五を
数える幼い青年であった。
直義の頷きを求めている、お前の為だと示したがっている、まだ純粋な少年のま
まであった。
そして直義はそんな兄を識っていた。だからいつになく自分から、膝立ちになり
その肩に抱き縋って、心の内を零してみたくなった。
「…何故兄上が行かなくてはいけないのですか?」
「珍しいな。物分かりの良すぎるお前が」
骨の形が解る平らな背を撫でてやりながら、高氏は苦笑した。初めからこの言葉
が、こういう弟の感情が欲しかったのかもしれない、とひそかに気付き、自分を
狡いと思った。
「もしも辛いことがあったら、全部直義にください」
「馬鹿を言うな」
手を滑らせていた、滑らかな衣を高氏は強く握りしめた。ぎゅっと結んだ拳を感
じる背中の熱さと力に、小さく身じろいだ直義の耳元で、囁く。
「だから、強くなったと言っただろう」
交わされる言葉が、潮風を抜けて漏れ出ることは有り得無い。
たとえこんな自由な場所に来ていても、身を寄せる姿はどこまでも閉ざされた中に
あった。
二人が立ち上がり波うち際へと移ると、師秋はそっと近づき、置き去りにされた
直義の馬を引いて戻る。 浜から少し離れ砂が薄くなった所まで引いて、適当な木
の幹に括り付けた。足元にはほんの少し下草が生えていて、馬は首を伸ばしその
ささやかな薄緑を食み始める。優しく一度横腹を撫でた後、これなら主の馬を陽
射しから遮ってくれるだろうかと、師秋は伸びる枝葉と足元の影を確かめた。
視界の先には、黒毛の馬と、もう一人先客がいる。目が合うと、彼は一歩擦れて
場所を空け、従兄弟を自分の木陰に招き入れた。
「良い日和ですね」
「ええ」
今日は迷いを知らぬ晴天だ。
気を置かず言葉を交わせる相手は、内実、互いに少なかった。しかしそれは一族
の定め、それ故に彼等が今置かれている立場に不随する、致し方ない事情だ。過
ぎた話や接触は、漏洩に繋がることを、彼等は何の抵抗もなく心得ている。
「安心しました」
「何が?」
「明日からは、あのように嬉しそうなご様子も拝見出来なくなるかもしれません
が。今日はひとまず…」
「そうですね」
頷く師直の横顔は、だが仏頂面に見えた。彼は明日より始まる主の出仕に、誰よ
りも気を回さねばならぬ立場にある。
「直義様はさぞ気を落とされるでしょう」
「それはこちらも、同じですよ」
知らず口調に混じる苦々しいものに、黙って頷き返している師秋は、もう二十三
を数えた青年である。 その歳の功か彼の質故なのか、彼は始終我を示さない。そ
して受け流すのではなく丁寧に拾いながら、後についてきてくれるような穏やか
さに、師直は心を許していた。師秋も、本家の跡取りである些か苦労性な従兄弟
を、少し離れた所から見守っている。
「はやいものですね」
「ええ。稽古だの講義だのと騒いでいた頃から、まだほんの少しの時しか過ぎて
いないように思います」
「師直はお傍に仕えてもう七年も経つのでしょう?」
「はい、」
見ると直義は脱いだ草履を右手に纏め持ち、もう片方で袴を少したくしあげなが
ら、浅瀬を踏み締めている。小さな足裏をこちらに向けながら水を蹴ったり、砂
に沈めたりしていた。
そんな弟と無邪気に笑い合う主を、師直はじっと見つめている。その眼差しがど
んなものを含んでいるかは計れる由も無いが、自分が直義に向けるそれとは違う
種であることを、師秋は何となく意識した。
しばらく響いた潮騒の音の後で、傍らの従兄弟に口を開く。
「貴方も二十歳ではありませんか」
「そう、なりますか」
自分の事を言われたことに、少し戸惑うかのような視線を返して来た師直に、師
秋はふと笑んだ。
「大きくなりましたね」
慣れぬ扱いは多分に甘く面映ゆい。妙に素直でない微笑を零して、師直はもう一
度高氏を見つめた。弟と自分、二人分の草履を、波から離れたところまで置きに
来ようと、さくさくとこちらに歩んでくる姿が映っていた。
――すべては、彼の為でなければならない。
――すべては彼の為だ。
高氏はそう、言い切ることが出来た。
草履を置いた後、少しの間ふらふらと動き回りながら、それでも波打ち際にうず
くまっている弟を視界から逃がすことはなかった。
氷のような硬い殻の中から時折、驚くぐらい真っさらな甘え、または強欲さとも
言い換えられるものを、直義は覗かせる。
雛鳥のように口を開けて求めることもできないまま、己の繊細な糸に必要以上の
ものを引っ掻けては、その重みに耐えようとして芯を擦り減らした。
しかしそんな質に気付いてか気付かぬからか高氏は、周りが手に余ると歎くのを
尻目に、弟を無条件に愛した。
否、無条件では無いかもしれぬ。
彼が自分だけに寄せる純粋な信頼が、心地よかった。研磨されたあの弱さを、綺
麗だと感じた。
弟は、自分の望むかたちに育っている。
そこに己を賭けるは、等価の代償だ。
「何を書いてるんだ?」
細長い流木を筆のように持ち、一心に手を動かしている弟に遠くから声を掛ける
。直義は何も答えなかったが、その声を待っていたかのように機嫌良く顔を上げ
た。
歩み寄り横から覗きこもうとした刹那、浜は波に掠われる。舌打ちした自分を悪
戯に笑った直義に、手先で水を掬い投げた。
「兄上!」
「はは、せっかく来たんだからな」
悪びれもない兄に、直義も負けじとやり返す。そうやってひとしきりやり合った
後には、二人等しく笑っていた。
「…しょっぱい、」
甲で目元を拭い、直義は呟いた。楽しいのかつまらないのかさえ顕れていないそ
の透明な横顔を見て、ふと問い掛ける。
「直義、海が好きか」
「はい」
一体どれ程たくさんのものを、受け止めてきているのだろうか。預かり、還すこ
とが出来るのだろうか。まるで途方も無い。
繰り返す潮騒に耳を澄ませれば、このままここにいられる気がした。自分と兄で
、いられる気がした。
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