背も伸びた。外見も、歳不相応すぎる、というまでではない。しかし見識の上で
はともかくとして、狭い世界から出ないまま大きくなった直義は、結局のところ
妙に不完全らしかった。
肩の力が抜けず必要以上に毅然と振る舞うのに、時々驚く程現実感を欠いた。そ
してその差異に苦しむ度、彼の他人を見詰める姿勢は険しくなっていった。
どんな相手であっても疑うことをやめず、先回りをして扉を閉じる。
直義の処世である。
例外は勿論、彼の目の前にいる兄のみだ。
「…本当に、」
「大丈夫です」
「無理しなくていい。今からでも俺が、」
つまるところはただ、置き去りにされるのが嫌なのだ。
見送る兄も、見送られる弟も、たったそれだけのことで互いに背を向けられない
。
「…兄上、」
「ん?」
返えの声音は酷く優しい。高氏は内心、この繊細な弟の弱音を欲しているに違い
なかった。
だが直義は、一つ表情を明るくする。
「終わったら一緒に帰りましょうね。お待ちしています」
「…ん、」
これが意地にならなければ、と師秋は危惧する。それは高氏と直義が、全く別の
仕事を受け持つことになったある日の、やり取りだった。
直義は微笑んでから、一人先に廊を曲がっていった。
じっとそれを見ていた高氏だが、少し苛立った様子で振り返る。去り際に「頼む
」とだけ呟き、弟と逆の方へ引き返していった。
高氏に従い歩く師直を、まだ困惑と諦めの狭間にいると、師秋は見た。
――…三つばかり歳下なのに、私より三年早く次期当主の執事となった彼は、ま
だ主との距離を計っているのだろうか。
計ろうとしているのだろうか。
自分も薄い苦みを噛み締める。
もう諦めていた。
自分と直義は何も変わらない。変われない。
何も失わず、
何も得られず。
ただ害さないで済む手段を拾うことは、少し上手くなった。
主との距離を詰める為には、本当はもう少し足を早めねばならぬのだろうが。
昔から、直義は一人でも全く平気だった。
一人なら、と言い換えてもいい。望まぬ誰かが入ってこなければ、割と確実に穏
やかに自分を保っていられる質なのである。
特にこの頃は突き返し方も上手くなったので、実際何事にも恙無い。
初めはやはり、ひやりとする場面があったが、それは彼が自分と周りに折り合い
をつけられなかった、初めのうちだけである。
『お聞きしましたよ。足利の若君の弟だと』
直義は僅かに顎を引いて、相手を見下ろす。そうして一瞥を投げた後、また棚に
向き直った。
北条のものである書庫には当然、自由に出入りする事が出来ない。管理する者の
許可を得て、必要なものだけを持ち出すのが規則である。直義が出仕を始めたば
かりの頃は、まずそういった一つ一つのことに慣れなければならなかった。
ただの使い走りのようなものを、させられることもある。
素姓も顔も知らぬ相手と出くわすのも稀ではない。
ずっと彼の側にいることもないだろうと、師秋は違う用件を扱っていたのだが、
後から偶然入ってきた直義が、正面の机で座り番をする男に声を掛けられた場面
に出くわす羽目になった。
初め直義はきょろきょろとあたりを見回していたが、近くの棚で立ち止まった。
まだ十五を過ぎたばかりのその姿からは、高氏には無かったいびつな幼さが透け
た。
そうしてやっと棚を漁り始めた時、また背に声が掛けられたのである。
『存外、兄君と余り似ていないように見えまするな』
みるみる口角が下がり、目を細まる様を、師秋は目の当たりにした。相手にはそ
の小さな後ろ頭しか見えていない。
嫌な表情だ。
嫌悪と同時に面倒だという感情さえもが染みでていた。
だが彼は次の瞬間何食わぬ顔で振り向き、相手に瞳を向ける。
『おっしゃる通りですが』
眉を上げ、小首を傾げる。一見驚いているようにも見えるその動作で、直義は間
違いなく相手を小馬鹿にしている。
『それが今何か関係あるのですか』
起伏がない冷たい言葉。
すんなりと出て来た故に、誰もが声を上げるのが後ろめたくなるような沈黙が、
その後続いた。
好奇半分とは言え悪気もなく、むしろ話の契機にしようとしていたであろうに、
それはあんまりな態度では、と師秋は内心冷や汗を掻いていた。
重い沈黙の中、時が少し経った。
『確かにお預かりしました』
直義はそう言って束を纏めると、懐から出した敷物に包み両手で抱きこんだ。そ
してさっきあんな言葉を浴びせかけた男の前の帳面に、何食わぬ顔で筆を走らせ
る。気まずさになど気付かぬようなそぶりで、一人すたすたと出ていった。
その頭には、烏帽子がまだ馴染まぬ様子で乗っていた。
一人になり、時や己を持て余した時、直義は自分の心と向きあわざるを得なかっ
た。
しかし今まで、独りでいた時の自分が本当に何をしていたのか、あまり覚えてい
なかった。
飽きる程眺めていた天井の模様と、焚いた香の匂い。
そして有り余る程の空白を埋め合わせる、たった一人の兄。
ぐるぐると回って、結局初めに戻ってしまう。
高氏が傍を離れる。
直義は当然その度に、途方もない喪失感と対峙する。
……しかし幸運なことに、彼には時が充分に用意されていた。
自分が兄から離れ、兄が自分から離れざるを得ない機会が、少ないとは言え稀で
はなかった故に。
……そしてもう一つ、
彼はよすがを与えられた。
幸運と、言えるのかはわからないにしても。
初めての出仕を迎えた兄を見送った後、彼の足は自室ではなく真っ直ぐ倉へと向
いた。
我命をつづめて。三代の中にて天下をとらしめ給えとて御腹を切給いし也。
黒ずんだ紅で印された花押。
生き血の蹟、
軸がぶれたように線が乱れ、形が大きく崩れていた。
…家時
ちかちかと頭の中で点滅している血の花押。
その形に浜辺をえぐった、昨日の感触を、手が覚えている。
幼い日に目に焼き付けたそれを、今こそ自分の中に飾り立てなければならない。
――いってらっしゃい、帰りをお待ちしています。
門まで見送りに出て、上手く笑えただろうかと案ずるより、余程堅実。 彼は極め
て理性的かつ現実的、かつ打算的であった。
飽きる程眺めていた天井の模様と、焚いた香の匂い。
帰っても誰もいない室。
そして有り余る程の空白を埋め合わせるたった一人の兄。
「…見つけた。」
こたえを、知った。
手に入れた。
兄上だ。
義家より十代、家時より三代。
指で何度も系図を辿り、確かめる。
繋がる血という線に恍惚とした。そして自分の兄が天下を取るという幻想に、飽
きることなく思いを馳せた。
それは月を望むあの感覚に似ていた。
そのためだったら仕方ない、と。 理由足り得るかどうかが、実は一番大切だった
のだが。
それから十年余りが経ち、彼等はそれぞれ妻を娶り子も産まれていた。
もうあの頃のようにはいられないにしても、その絆は変わらぬ、とはいえた。
ただお互いに、多くのものを持つようになったこと。
そして世が、ある一つの変革を迎えていること。
この動乱を、直義は勝ち誇ったように笑うことができた。
―――兄上が、あの月を手に入れてくださる
時が、近付いていた。
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