身体の中を内側からつつかれているような苛立ちが、ふとこの夜も高氏を苛んだ 。
落ち着かぬ夜は弟のところへ行く。そして自分一人の為に笛を吹かせる。
兄上が聞いてくださるから、とはにかむ弟は、健気に一人練習を続けていた。


――…もう、うんざりだ。煩わしいものが多すぎる。

度重なる出兵の要請。
父はもういなかった。

馬を飛ばして、
兵を集めて、
軍を率いて。

…俺に何をしろというのだ。余計なものはこれ以上いらぬというのに。


胸を掻きむしりたいぐらいに窮屈だった。


今宵も、そう、
いや、違う筈だ。

直義がいれば




「あ、兄上。今伺おうかと思っていたところです」

「ん、そうか」


全て自分があげたものだ。
変わらぬ墨の香。見覚えのある品々に囲まれた、見慣れた柔らかい笑みに胸を撫 で下ろす。ちりちりと騒がしい感覚が、静まっていくのがわかった。

「まだ、執務が…残ってたのか?」

「いえ、頼まれているわけではないのですけど」

積まれている文の束に、高氏は首を傾げた。直義は丁寧に、墨を擦り始める。そ の傍らに胡座をかいた。

「何か用事か?」

「はい、」

墨を含ませ整え直した小筆を差し出しながら、直義は言った。


「さあ花押を、兄上」

「……何?」

「兵を率いて向かうは、六波羅でしょう?」

それから直義はつらつらと、色んなことを語った。執権の命に従ったふりをして 鎌倉を出ること。妻や子は自分が何とかするから心配ないということ。各地で朝 廷と繋がる悪党達が蜂起していること。


「兄上は祖父殿より三代。正統なる清和源氏の代を再び成される」

「死人の戯言だろう。そんなものに囚われて」

直義が、伯父が、他の誰もが。幕府を危ぶんでいるのは知っていたし、その結末 を匂わせてもいた。
今直義が述べたのは、それよりもっと大きく、深い望みだったが、まあよいか、 と思った。


冗談だろう?それより、と続けようと、高氏は弟に笑いかけた。しかし弟は、硬 く言葉を続ける。


「直義は戯言とは思いません。だから兄上のような方が当主に成られたのだと、 信じています」


信じている、という熱のある言葉に関わらず、まるで仕方なく言っているかのよ うに直義は妙に無表情であった。彼の願いより何より、絶対で強固な白壁のよう なこの面が、高氏は嫌だった。

初めて見たのはいつだったか。
嫌悪というより恐れに近い何かが、何時も瞼の裏を震わせる。


「やめろ」


直義はうろんげに瞬きをした。それだけだった。

「俺がこうしているのが、そんなくだらない紙切れの為だと言うのか」

「くだらなくなんかありません」


沸き上がる激情をぶつけるに、今この弟の面はあまりに味気無い。

額に握った拳を宛てて、高氏は己を鎮めようとする。目を閉じれば、きりきりと 噛み締めた歯が、鳴るのが聞こえた。
それは、馬鹿みたいにざわつく暗闇を引きずり出す。違うのに。


何時も怯え縋るようにして、自分の手を握ってきた癖に。
これ以上何も出来ないというように弱々しく、自分を見上げてみる癖に。
誰よりも素直に、自分に安心しきった顔を向ける癖に。
まるで殺されてもいいとでも言うように、自分の腕の中に身体を預ける癖に。

何時だって彼の為に何でもしてきた。出来ると言い聞かせてきた。そうやって強 くなって歩いて来た。なのに、


「出せ」

「何故?」
「破り捨ててやる」

立ち上がった高氏は、弟を見下ろした。怒りというより呆れのような、そんな疲 れた顔でいて、見上げる視線だけは鋭く射抜いてくる。


「俺の言うことが聞けないのか」

「聞けません」

「直義」

「あの誓約は私自身の望みでもある。兄上は将軍に為られるのです。その為にこ うして足利当主に成った」

「違う」

「違いません」




next