ぽろん、ぽろん、と。
拙いが、それなりに雅やかな琴の調べである。室を満たし庭へ流れ、鮮やかな紅 葉の中に吸い込まれていく。
緊張が切れぬまま、最後に弦が弾かれた。
すると、少女の瞳はその歳相応の愛らしさと輝きを以って、外の廊を見つめた。
そして恥ずかしげに頬を染め、ほっとしたように笑ったのだった。

胸騒ぎがした義詮は、少女と同じものを見ようと急いで目をやった。

戸は僅かな隙間ぶん開かれていて、そこに誰かがいたことがわかった。
微笑を湛 えた口元が、見えた気がした。ひらひらと指先を揺らして、すぐに身を翻した影 絵を、憑かれたまま見送った。

余韻しか追うことができない。
つまり義詮は、少女と同じものを見ることはできなかったのというのに。


「じゃあね」、と。
すがり付いた記憶の断片から、頭の中で勝手に声が鳴り響いた。




「義詮」

呼ばれて振り返ると、目尻を下げて上機嫌に笑う父の顔があった。
訳もなく安堵を覚えながら、それでも、一度目覚めてしまった興奮は二度と収ま りはしない。

「ほら、あやめ殿に、御礼の挨拶をしないとな」

「…あ、…はい、父上」

義詮は立ち上がり、琴の傍で人形のように行儀良く座っている従姉の傍に歩み寄 った。前にきちんと正座をして向き合う。
尊氏が、控えていたあやめ付きの侍女に気安く声をかけているのが聞こえた。
ど うやら昔から足利に仕えている者らしく、壮年の落ち着いた女で、また尊氏のこ ともよく知っているようだった。



「素敵な演奏、有難う、ございました」

「まだ、上手に弾けなくて、ごめんなさい。義詮さま」

あやめは、はにかんで下を向きながら、ぺこり、と頭を下げた。
謙遜でも言い訳でもないことが伺えた。
あやめ自身は、大人しくて気取ったとこ ろのない誰が見ても可愛らしい少女だった。
そのことは十分知っている義詮であ ったが、彼女の父、直義との関係や、自分の父、尊氏が彼女に向ける溶けるよう な笑顔を考えると、あまり打ち解けて話したくなる相手ではない。

だが、先ほどの光景が、義詮の足を進んで彼女の傍へと向わせ、距離を縮めさせ た。

「…えっと、」

ちらと後を振り返って見たが、父はまだ愉しそうに侍女と話している。声を潜め て問いかけた。

「先ほど、誰かいらしていたのですか?」

「?」

「廊に」

今まで不思議そうに首を傾げていたあやめが、ぱっと目を輝かせた。

「お義兄様です。…その、今日は、お父様と一緒ではないので」

「、ええ」

執務に忙殺される直義は、この席に並んではいなかった。
父はさぞやがっかりし ただろうが、自分にはせめてもの幸いというべきだった。
正直に言えば叔父は単 に自分と顔を合わせたくなかったがために、上手く避けたのかもしれない、とま で思っていた。
逆に、そこまですることもないか、とも思ったが彼なら平気で出 来るだろう。そういう人だと思う。

「心細いと申しましたら、お琴を弾く時は、隠れて見ていてくださると」

「そうでしたか」

尊氏との関係を何も知らされていないのか、あやめはただ妹として、なんの衒い もなく直冬のことを口にした。
焼けるような痛みが義詮の胸を這い上がった。
そしてその痛みが爪のように、そこら中を引っ掻き回したくて疼いている。

なるべく、親子関係やその周辺を自然に聞けるような流れを作ろうとしたが、何 処で踏み込んでいいのかわからない。
思い切れずにいると、尊氏から「済んだか 」という声が掛かった。頷いてみせると、尊氏はあやめを呼んだ。

返事をして立ち上がった彼女に続き、持座に戻った。

父が優しく従姉の頭を撫で、何か綺麗な調度品を与えているのを視界にいれなが ら、なるべくそちらに意識を向けないよう努めた。
にも関わらず、螺鈿の細工の 入った掌程の大きさの小箱が、琴の爪入れであることを察し、おそらくわざわざ 拵えさせたのだろうとい うことも想像してしまう。

たぶん今彼女が身につけている帯も、髪飾りも、父が与えたものなのではないか と思う。
あの叔父の娘である彼女を、父が可愛がらないわけがないのは分かって いたが、好ましい感情は抱けない。あやめ本人への嫉妬、そして叔父への嫉妬、 劣等感を抱いてしまう。


「尊氏さま。そのように姫に貢がれては、また直義様にお咎めを受けるのでは? 」

「はは、俺が童の頃と変わらず、お前は手厳しい」

尊氏は気安さを滲ませながら、侍女と軽口を交し合う。

「でも、そうだな、俺の楽しみの一つだからやめられない」

だが別に、何もそれはあやめ一人に限ったことでもない。当然自分にも向けられ るものだ。父の屈託の無い笑顔は、誇りであった。分け隔てなく接し、惜しげも なく与える。

分かっているのに、嫉妬してしまう。



そして、何故か惟一人あの人は愛されないのだ。


「今度は直義と合わせて聞きたいな。また、聞かせてくれるか?あやめ殿」


今すぐここを出て彼の背中を追いかけたい。

場を壊さぬように、父の横で曖昧な笑顔を浮かべていた。


確かに自分、と直冬は違った。それでも、無性にあの人に会いたかった。











もういい加減、知れてしまいそうな気がする。でも、いい。別にいい。



湿っぽい寝物語は、子守唄のように自分を落ち着かせてくれる。

今宵は瞼の裏に、投げ入れた貝が、左右に揺さぶられながら、海の底に沈んでい くのを見ていた。


女が語ったのは海の話。

女の母が入水したという暗くて冷たい海の話だ。

少女だった頃、女はただ黙って、低く低く沈みながら進んでいく背と後頭を見送 ったという。
察するに、義妹のあやめと同じくらいの歳だったろうか。そこから 一人で生きていく術を覚えていったというくだりには、少しうんざりした。

黒くて長い髪が、のっぺりと波間に拡がり、そしてくねりながら沈んでいく。

欠けた月が出ていた、と言うから思い描く風景にそれとなく半分の月を浮かべて みる。

そういえば自分の母はどのようにして死んだのだっただろうか。
暗い夜の海にしずむような、そんな静かな死に際だっただろうか。

思い出せない。


「泣いて呼ばなかったの?縋らなかったの?」


尋ねた自分の声は冷たかった。
いつにもまして、身体を起こすのが億劫だ。
それでも一度動き出してしまうと、こんな面倒な場に身を置いているのは、さっ さとやめてしまいたいと思うから不思議だと思う。
裸の肩を己の髪がつたい、そ れをわずらわしく振り返った時に、寝転んだままの女と眼が合った。

「何にも出来なかったわ。母が好きだったから」

好き、

「それに、怖かった」

「何が?」

「例えば泣いて縋ったとして、母は私の名を呼び返してくれるのかって」

「……、」

覆いかぶさるようにして一度、女の頬に口付けた。
今この瞬間は、珍しく感傷的になった。

おんなは、やさしいひとばかりだと思う。







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