強くなれたと思ったのに
守られているだけではもうないのだと
言い聞かせるようにしてここまで進んできて、
――・・・守られているだけでは、もうないのだと
障子をあければ暖かい日差しが注ぐ。眩しさに数度瞬きをしてから、ゆっくりと縁側に出た。
握った小さな布袋にはお米が入っている。丁寧に紐を解けば、淡黄色の小粒たちが覗いた。
空が青いからだろう。更々と乾いた音を立てる米粒に指を埋めてみる。
こんなにも日差しが眩しい日は、全てが暖かい筈だ。
庭先へと視線を戻す。
ちょこちょこと跳ねる小枝のような足。栗色の羽を体にぴたりと押しつけるように畳んで首を傾げながら
雀は高い声で鳴いた。
「今日も来てくれたんだ」
指先で探った米粒を五つ、投げてやる。跳ねながら近づいてきた雀は、小さな觜で器用に落ちたそれを摘んだ。
慌てたように次々と数羽が降りてくる。皆が地に立ったところで、また少しだけ投げてやった。
「あ、でも・・・もう終わりだよ?」
ねだるように震える黒い喉を見ながら小さく声を掛ける。
ちゅん、という鳴声がまるで返事のようで、
思わず笑いが漏れた。
いつも同じ雀達が来てくれる。名前はつけていないけど区別はできるようになった。
捕らえたいとは思わない。
自分のものにしたいのではなくて、ただ遊びに来てくれるのが嬉しいのだ。
庭先のこの遊びは、変わらぬ毎日の楽しみだ。
「また明日ね」
驚かさないようにそろりと室に戻る。それでも名残惜しくて、少しだけ障子を開けておいた。
兄上が出仕にでかけている間に、書の勉強を終わらせてしまわなければ。
兄上がお仕事をしているのに私が遊んでいてはいけない。
張り切った、振りをする。
誰も見てはいないのに、と自分を笑いながら。
私が今ここで何をしたって そんなことは気休めにすぎない。
…本当は、わかっている
私を守ってくれるものは、とても強くて弱かった。
この家には頑丈な門も、たくさんの見張りも、高い塀だってあるのに、
この血を守る人を守ってはくれない。
地位は重責
因は鎖
それはきっと、捻れて傾いた名ばかりの秩序のせいなのだろうけど、幼い頃からそれを知る程に、
全ては歪んでいた。
そんなものについていく意味など、もう失った筈だ。
でも必要があることは知っていたから、私はただ帰りを待つことしかできない。
持て余していても動けない。
…「足利高氏」はもう、私だけの『兄上』でいてくれないのだ
『母うえ、母うえ、兄うえはどこにいらっしゃいますか?』
綺麗な模様の打ち掛けをひきながら尋ねる。
『…高氏は今日から剣のお稽古をしているの。だからここにはいないわ』
『…お…稽古…?』
母上は手を取りながら、腰を屈めて顔を向かい合わせた。
『高氏にはこれから色々とやらなければいけないことがあるのよ。…仕方がないことなの』
『、だったら直義も、直義も兄うえと一緒にやります!』
こちらを見据える険しい表情は、やがて憂いを帯びる。
『直義は…直義にできることをやればいいの。そうすれば高氏も喜んでくれますよ』
同じことはさせてもらえない。なんとなくはわかっていた。
今となっては問題でないにしろ、ちょうど十にいかぬその頃まで、私は少し体が弱かった。
夜中にはよく咳をして、風邪をひけば高い熱を出す。ほんのそれだけだ。
だがその程度の弱さを、母上がひどく心に掛ける理由は知っていた。父が病のために家にいれなかったこと、
本当は私にもう一人兄がいた筈だったことが原因だろう。
…そして兄上が、
私とたった一つしか違わない兄上がそれをどう感じていたかはわからない。
遠慮などはなかったと思う。兄上は何も言わなかったし、構わず私を外へ引っ張りだした。
だけどそれでも時折、兄上は私の扱いに過敏だった。
そしてそれは今でも。
…だけどもう、私だってこの手で兄上を支えたい
心苦しく思う
憎んですらいるのに。
甘えてしまう自分。
ほんの小さな変化、
そうさせている全てを。
だから私は知りたいのだ。たくさんのことを覚えたい。
それが私にできることならば、兄上はきっと喜んでくれるに違いないから。
「おかえりなさい、兄上」
聞き慣れた足音、廊から響くそれに手を止めれば、障子が開けて兄上が入ってくる。
いつもより少し遅いかもしれない。
「…ん、ただいま直義。書を、やってたのか?」
「はい、…直義も来年は十五ですし。早く兄上をお助けできるようになりたいです」
「…そうか、それは頼もしいな」
十五になったら自分も元服をして、兄上と一緒に出仕できる。自然綻ぶ頬に、兄上も笑い返してくれた。
今私ができることはほんの一握りしかないけれど。
そしてそれが兄上の役に立てるかわからないけれど。
期待にも似た喜びはくすぐったい。だけど見上げた先の眸は、黒く曇っていた。
「……兄上?」
ふと視線を落として、その腕に巻かれた真新しい巾に気付く。
「お怪我をなさったのですか?」
「…!い…いや。ちょっと引っ掛けて…」
なるべく自然に尋ねたつもりなのに、兄上は慌てて腕を隠した。
引っ掛けて怪我することはあるかもしれない。
でも、それを隠すのは…
「兄上…、」
兄上は幕府から粗い扱いを受けているのだ。足利の名を背負っているから。
遥か昔、武士達を纏めあげることができた道理、それに伴う理非を識るものなんてもういない。
三代目の執権、泰時が制定した式目を学んだ時にそう思った。
空っぽの飾りものに住んでいるのは、世を腐らせる害虫だけだ。
…飼い、馴らしているつもりだ。兄上を。足利を。
そんな器も、持っていない癖に
「た、直義…あの、」
「…、」
決まり悪そうに名を呼ぶ兄上の声に、潜っていく思考を引き上げた。振り払うように首を振ってから笑い返す。
「すいません兄上。…ちょっと、書の写しが上手くいかなくて落ち込んでいたんです。」
…知らないふりをすることすら、知らなければできないこと。だけどそんな当たり前の論理は、兄上を傷つけるだろう。
それでも今は、ただ笑い返してほしいから―…
「っ……、」
「あ、にうえ?!」
追いかける声は、その背を繋ぎ止めることもできない。立ち上がって廊に出た時に、もう姿はなかった。
見え透いた嘘では何にもならない。
ただ事実と結果のみが全てを変えられる。
そうわかっていても、
…今は笑ってほしかったのに。
next
|