追わなくては、と思う。

さっきまで待っていたのだからもう嫌だ。

だけど両の足は重くて、引き摺るようにしか動かない。
縁側の下にあった草履を突っ掛けてのろのろと庭に出る。少し大きめのそれは日差しを浴びていて、踏みしめる度に熱かった。
誰かに見つかると面倒なことになると思ったけれど、辺りは妙に静かで誰もいない。
耳を澄ましても蝉の声一つ聞こえなくて、おかしいと思いながらも門を潜った。

何も聞こえないなら調度良いじゃないか

迷いなく照りつける日差しすら遠く、額に手を当てて立ち尽くす。
蜃気楼で視界が歪むと、さらに何処か違う世界に迷い込んでしまった気がした。
容赦のない真直ぐな光だけが、私を現に引き戻そうとしている。


まずは何処に行ったらいいだろう。
裏手にある山がいいかもしれない。



一人きりで出掛けたのはこれで何度め?

たぶんこの指を、はみ出す数ではない。



ただ記憶を手繰り寄せて、その景色を辿りながら歩いた。
初めゆるやかな傾斜は、やがて険しくなっていく。


――・・・一人、ひとり、

ひとりは恐くないのに、おいていかれるのは恐い。

脛と膝にかかる重みを有難いとすら思う。
荒くなっていく自分の呼吸の音に、耳を澄ませた。

…恐くて、こわくて、どうなるんだろう?

何を考えているのかよくわからない。
ただ一緒に歩いた道だけを探している筈なのに、それだけではないものが足を急がせる。

今の私を見ているをのは私だけなのだ。

・・だったらどこまでも、必死になってみようと思った。





「…い、…ない」

丁度この木の枝葉の隙間から今と同じ景色を見た。だからここで間違いはないだろう。
…そう確かにこの場所でこの角度で、あの家の屋根が見えたのだから。

上がった自分の息の音だけが聞こえる。きりきりと痛む胸を押さえ込んで、そっと横によりかかった。
背中よりもだいぶ細い幹が僅かに撓んで枝を揺らす。葉に合わせて動く影が、視界を乱して落ち着かなくさせた。

ゆっくりと目蓋を下ろして、また探す。


つぎはどこに行こう

どこに行けるだろう

「……、ん…」



徐徐に落ち着いていく呼吸が静まりきった頃に


問い掛けながらやっとわかる。

一人になるということは、それを確かめることができないことだ。
思い出せる場所はたくさんあるのに、私はたぶんどこにも辿り着けない。


この手を、
引いてくれる人がいないと。


名前すら呼べない


こめかみから伝う汗を拭えば、焼けたように熱い頬に触れた。

必死だった。私は「兄上」を探している。

なのに
譲れぬたった一つの願いすら、閉じ込めてしまいたいと思い始めているのだろうか。
手の甲で拭う汗と温度が鬱陶しくて仕方がない。


この弱い心に強い鍵をかけたら、誰も困らせずにすむと知っていた。

そうだ、鍵を

かけてしまえばいいのに。
解けないように結んでしまえばいいのに。

だいじょうぶ、
自分に言い聞かせる。

――・・・屋敷に帰る頃にはきっと、上手くできるはずだから



夕日に染められた空は赤い。眩しさよりは淡い煌めきに戸惑いを覚えて視線を落とす。
燃えるような茜色に焼き尽けられて、踏みしめる足の先には長い影が伸びていた。

このあたりで待ってみようか。

待っていないと会えないなどということは

ない、としても



進めていた歩を止める。邪魔にならないように道の端によると、そっとしゃがみこんだ。
両膝を抱えて蹲っている間に、ただ時が過ぎていく。
じりじりと、頭の後ろが熱い。

上手くできるはずなのに、

時間稼ぎをしているのかもしれなかった。きっと今戻っても、兄上は帰ってきてはいないだろう。

早くここを通ってほしい
――・・・通ってほしくない

直義、と呼んでほしい
――・・・私の声は届かなかった

笑っていてほしい、と言いたい
――・・・上手く笑い返せるだろうか

表と裏の答えが鍵をかけてくれるはずだ。
絶対に、開かないかぎを


「…あ」

小さく聞こえてくる蹄の音に、はっと顔をあげる。
逆光で顔はわからないが、道の先からは確かに馬に乗った誰かが見えた。

兄上かもしれない。


そう思って目を懲らす。だが影ではない姿をやっと捉えたときに見えたのは、知らない童の顔だった。
ため息を洩らす。なのにその後に何の感情も続かなかった。
落胆でも安堵でもなく、胸の中をひやりとしたものが掠める。

「…よ、っと。」

その冷たさに気を取られている間に、童はぽん、と馬を飛び降りてつかつかと近づいてくる。
背丈はあまり変わらなそうだが顔つきは少し幼い。高めに結い上げた髪が、尾のように元気よく揺れた。

じっと私の顔を見た後、荒々しく横にしゃがむ。

「……」

どうしていいかわからず、固まったまま隣の男童を伺う。
戸惑いは確実に冷たさを隠し、離れ掛けていた感情がまた戻って来た。

都風の色合わせはこの辺りであまり見かけない。熟れに着くずした水干狩衣は、よく見るとなかなか上等な品だ。
だがところどころが遠慮なく汚れていて、何となくもったいない気がした。

「お前、」
「!…」

急に掛けられた声にどきりと一度肩が跳ねる。相手は何も気にした風もなく、鋭い目線を向けた。

「迷子?」
「…違いますよ」

少しむっとして送った視線は、意図せず下げられた首に交わされた。その俯いた横顔に尋ねる。

「君はどこに行くんですか?」
「字の先生んとこ」

近くにいただろうか。特に覚えがなくて首を傾げる。
何か手がかりを探そうと、乗り捨てられたままの馬を眺めた。何にせよ、私より幼いぐらいの童の筈だ。

「一人で?」
「ううん。そうじゃないけど。長い用事が済むまで迎えに来ないって」

誰が、と言うのが抜けていたが何となく主旨はわかる。この子も今ひとりなのだ。
切なさがちくりと胸を刺した。
人恋しさ、とかそんなものかもしれない。伏せられた小さな横顔に、覚えのある痛みを見つけようとしてしまう。

僅かに降りた沈黙の後、今度はがばりと頭が起き上がった。

「字、読める?」
「え」

私の返事を待たず、ごそごそと懐の中をまさぐりはじめる。立ち上がってばさばさと袖を振ったりもしていたが、
どうやら何も見つからなかったらしい。

「……」

がくりと落とされた肩に何となく後ろめたくなる。声を掛けようと思った途端、思いついたように襟元に手を
突っ込んだ。あったあった、と言いながら紐ごと守り袋を引っ張りだす。
首に掛けていたらしく、項に同じ朱色の紐が覗いた。

朱は、

夕より赤い

私とこの子を染めている夕焼けの色
それよりもなお鮮やかなその紐を見ると、何故かほっとした。

「これですか?」
「そう。」

布袋からほじくり出した、小さな紙を広げる。

手渡された紙に、そっと視線を落とした。
羅列してある漢字はおそらく

「真言、かな」

「…しん…?」


「早く言えばお経です。」
「すごいな!お前読めんの?」

生き生きとした瞳が、夕暮れに弱まった日脚を掻き集めたように輝く。
初めて見たとき鋭く感じた目元は、思いの外あどけなかった。

「…意味まではわかりませんけど」
「ふうん…」

頷きながら興味深げに返したその紙を観察しはじめる。挙げ句の果てには日に翳しなどし始めたから、
思わず吹き出してしまった。

「大事に持っていた方がいいです」

頬笑みながら言うと、童は困った顔のままもう一度手元の紙を見た。

「お経なんかいらねぇよ。俺、坊主にならないし」
「…そういうことではなくて、気持ちの問題です」

「気持ち?」
「はい。」

んー、と唸りながら身を引いて、逸らすようにこちらに背を向ける。
結んだ黒髪が茜色の光を弾き返して赤銅色に見えた。

「ま…いいや」

言いながら守り袋をまた仕舞いこむ所作を、足元の影が真似ている。
何となくその様子を見ていたら、ふと目の前が暗くなった。

「!?」

急に縮まった距離に押されて、思わず尻餅をつく。目の前の瞳に驚いた自分の顔が映って、更に身を引いた。
覗き込むように、童はぐいと顔を近付ける。

「…まあ、元気だせ」
「は?」

「あんまりここにいると呑み込まれちまうぞ」

射ぬく光が真剣でどきりとする。

「…どういう意味ですか?」

にやりと笑って身を引くと、童は立ち上がって馬に駆け寄り、よじ登るようにしてまたがった。

「逢魔が時って言うらしいぞ。・・・なんかお前、連れて行かれちまいそうだ」


じゃあな、と走り去る影を見送りながら、唖然としたまま数度瞬きをする。
去り際に言い捨てられたそれが、呪文のように奥に沈んでいく。

目を見開いたまま立ち上がる。ぽんぽんと砂を払いながら、逃げ出そうとする思考を今度は妙に落ち着いて捕まえた。


そういえば、
私はここにいたいわけではなかったのだ。


夕焼けより鮮やかな色を見れた。だから帰ろう。
不思議だった。何の意味ももたぬはずのあの色に、私は何をもらったのか。

連れて行かれたりしない。
今連れて行かれるぐらいなら、
だって、私はとうに――・・・




戻ってきた室の中、ごろりと仰向けに寝転がる。
差し込む夕の日差しが障子を抜けて、爪先に僅かな暖かさを感じた。
天井に見えるうろの模様を目だけでなぞっていたのに、いつしか何も映らなくなる。


小さな穴から何かが吸い込まれていくような気がする。
きっかけはというとやはり兄上が室を出ていってしまったことだと思うのだが、その時の
感覚が一人歩きをして、よくわからないものになってしまったようだ。

あの子のいうように何かに憑かれてしまったのだろうか

納得のいく答えはでなかったけれど、そこで行き止まりになったから考えるのをやめた。

身を起こしながらあの朱色を思い浮かべる。


手に取った筆は思いの外滑らかに進んだ。



せめてこの気持ちだけでも閉じ込めて

私ではない

・・・兄上が、誰かに連れて行かれないように







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