「…兄上」
「直義…、」

受けとめる重さはいつもと同じ

「…直義は、兄上の為に頑張りますから。兄上も、頑張って下さいね」

…なのに、
馴染みきった墨の香が、炙り出したものがあった。

知らぬ香と知らぬ色

夕暮れよりも、
朱色の紐よりも赤い

小指に巻かれた紙縒




…だれ?






仕方がなくて桶に水を汲みに行く。すれ違った下女が寝衣のままの自分を不思議そうに見たが、
声は掛けてこなかった。室に戻ってそっと桶を置く。揺れた水面に手首までつかりながら巾を濡らし、
思い切り絞った。滴る冷たさは心地よいが、ぎゅうと握った摩擦は少し痛い。

畳を濡らすことは躊躇われたけど、もう塗れてしまっているのだから仕方がない。
思い切って畳に巾を置き、懸命に腕を動かした。




『…ただ、よし…大丈夫か』

いつも、ただこの人だけを信じればいい。だから何も考えたくなくなる。

離れないで


鼓動が聞こえる。それだけしか、わからない。



――・・・少し腕が疲れてきた。
だけどなかなか、この染みはとれない。



『…もう、もう大丈夫だから、』

跳ねるような鼓動が聞こえる。暴れ狂う嵐みたいだ。このままでは壊れてしまう。
何とか蓋をしてあげたくて、ぎゅっと、身を寄せた。



――…血は落ちにくいと聞いたことがある。水気がなくなってきたから、もう一度桶に巾を浸した。



『っ…直、義!』

瞬きを、視覚を失ってしまったのだろうか。目は開いているのに何も移らない。
ただ続きの音を探している。


目を堅くつぶって頭を抱えた。雨のなかにいるみたいだ。



――・・・ぬめった感触は気持ち悪い。だけどこびりついたその色が、一番気持ち悪い。



『…、っは…ぁ……は』

それは兄上の、胸の中の音ではなかった。鼓動が、漏れた音だった。

『…直義…怪我は』

馴染まない視界の中、避けられたのも構わず近づく。

血が、でている

『…痛くありませんか…』

こめかみから血がでていた。流れ出るそれに触れる。ぬめった感触は、気持ち悪くはない。
だけどいくら拭ってみても、とれない気がした。

『兄上…直義は大丈夫ですから…』

私は大丈夫だ。

『…兄上が…守ってくれましたから…』

兄上はどうしたの?

抱き締めた体から、続きが聞こえる。
それはさっきと、違う音だった。


――・・・薄れもせず変わりもしない。ただ自分の腕だけが、感覚を欠いていく。



『直義さまも…身をお清めなさいませ』


汚れたのは私ではない。
冷たい兄上の手を取る。血が通っていないみたいでびっくりしたけれど、目を逸らさずに笑い返した。
少しでも安心してくれたらそれでいい。
青ざめた兄上の顔を見て、自分はできるだけ普段と変わらずにいようと思う。

確かにそれは守れたのだけれど。
湯を浴びおわって室に入った時に、そこには何故か兄上の姿がなかった。



――…どうしてだろう。私は幻でも見ているのだろうか




『…直義…、食べれないの?』

黙って小さく頷けば母上が重い溜息をつく。空席の膳が気になって仕方がない。
何とか箸を進めようとしても、口に入れた後なかなか飲み込むことができなかった。
仕方なくもぐもぐとずっと噛み続けていると、口の中で異物感が増していく。
吐き出したくなって、何とか茶で流し込んだ。汁物にだけ口をつけて箸を置く。

『直義さま、顔色が優れませぬな』

叔父が心配そうな目で見やる。
その思慮深い眼差しと母上の強い視線に、必要以上のことを見咎められそうで少し面倒だった。
黙ったまま首を横に振る。叔父と顔を見合わせた母上は、今度こそはっきりと眉を曇らせて語気を強める。

『今日はもう休みなさい』


おやすみなさい、と挨拶をして自分の室に戻る。
雨の音を聞きながら眠る支度を整え終えた時には、体がひどく疲れていた。

今日の雨はおかしい。

何もかも閉じ込めてしまう気がするのだ。
あんなこともあったのだから、兄上にはあまり手の届かぬところに行ってほしくなかった。

誰もいない静観な筈の空間に響く雨音が欝陶しい。
さっきの感情といい、自分は苛々しているのかもしれない。むかむかと沸き上がる嘔吐感を堪えながら、
床に入って目を閉じる。
指の先から力が抜けていくように、思いの外すとんと眠りに落ちた。



――…そういえば先程から、自分は少しおかしかった。



『……』

目蓋だけが何かに叩き起こされたように、急にばちりと目が開いて目覚める。
気持ちはまるで落ち着いていて、唐突な寝聡さを何処か平然と受けとめた。

まだ、朝ではないのか。

仄かな明かりは月明かりで、揺蕩う湿った夜の気配は薄くすらなっていない。
光が差し込むほうにごろりと寝返りを打つ。高尚に澄んだ光を、じっと見つめた。

完璧に目が醒めてしまったらしい。

固まったように瞬きもしていない自分自身と、
もう一つ

『ぁ…、』

気付いたことがあった。
染みを見つけのだ。

月の青白い光を受け付けない。
目を凝らしても、それがどんな色なのかわからない。

黒?紺?紅?深い緑?

床に入ったまま手を伸ばす。届かなくて、指先がただ手前の畳を擦る。

腹這いに近づいた。じりじりと縮めた距離に、だが意味はない。

色がわからない。
黒、なのだろうか。

もう一度

『…ぅ、わ…』

染みを掬った人差し指がやっと、ぬめりとした感触を伝えた。
そしてその感触に




…これは血だ。

たった今まで気付きもしなかったのに

そんな自分がおかしいと思ったが、冷静に考えてみればちゃんと合点がいく。

確か眠る前まで、自分はこんなものに気付ける状況ではなかったのだ。
それに今日は、兄上がここで怪我をした。拭き零しがあったって別におかしくはない。



このままにはしていけない。

仕方がなくて桶に水を汲みに行った。







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