――・・・もう疲れた。これは夢なのかもしれない


そう思うとこの行動は意味が無い。
巾を投げ捨てる。
どうして今の自分はこんなに乱暴なのだろうか。
幻を見るのはおかしいけれど、気付けたのだからもう大丈夫ではないのか

ずっと水に触れていた手は冷たくなっている。
視界の端には相変わらず暗い染みがあったけれど、もう何とも思わなくなった。

もう一度眠りなおそうかと、振り向いて床を見る。だが頭は冴えてしまった。

狂気と一緒に堰が外れて思考が巡る。
いつの間にかおさまっていた雨に、背負いきれない静けさを押し付けられた気がした。

兄上は、帰ってきただろうか?

何処に行ったのだろう、大降りの雨の中
今日はあんなことがあったのに…、

あんなことがあった。

『あんなことが』

あんなこと、
あんな、


え、

…違う。


どんなこと?


しらない。
―…どくり
知らない?

「……に、…」
何で
―…どくり、…どくり
知らない

「な…に…?」

―…どくっ、どくっ、とくん、とくん、


しってるくせに


「なにっ?!‥!?」


思わず出た叫びのような声に慌てて口を押さえる。

―音が聞こえる。気持ち悪い。
室の中をきょろきょろと見回しても誰もいないし、音を出す物なんかない。







何、何だ、何が、…?


―…どくん

音が増える。

―どくん

音の『元』が増える。

一つ
違う、ふたつ。
ううん、違う。

みっつ、

「ぅ……」

指の間から声が漏れる。
冷や汗が背中を、背骨を、首を、こめかみを、

何の音?何のおと?なんの音?なんのおと?
知ってる音?
しらないおと?
止まる音?
とまらないおと?
いい音?
いやなおと?
私の音?

だれのおと?


「ぅ…うう、ぅ、、…」

悲鳴を上げたい。なのに押さえ込んだ声は呻きになる。すぐ近くで聞こえる音。三つの鼓動。
三つ?どうして?誰もいないのに。
三つ。何で?…今何だっ…て?

鼓動?

何だ、

ひとのいのちがうごくおと

三つ


「…?!」

どこ?
でもそこに


目、が


「あ、あ、ぁ、あ」

横たわる『それ』と目を合わせたまま、襦袢の袖を噛んで声を押さえる。
蹴飛ばした桶が倒れて、水がひっくり返った。







ずるずると片手を付きながら後退る。

ゆっくりと零れだして広がっていく水が、
いくら光を拾ってみたって消えやしない。

背中が壁に張り付いた。

もう下がれない。
わかっているのに足だけがまだ後ろに下がろうとする。

もうさがれない

あの染みがあった場所は?

もう下がれない



ひとが
しんでいた

わたしのこの場所で、ひとがしんでいたのだ


力を入れすぎた歯が小刻みに震える。息苦しいのに口を離すことができない。
涙が知らぬ間に、頬を伝って落ちていた。

あなたたちはだれ?
…知らないひとばかり

どうしてここにきたの?
…ここは私の場所なのに

なぜしんでるの?
…殺されたの?


止まない音に蹲る

やっと袖から口を離して、ただただ頭を抱えて耐えていた。

恐い、怖い、こわい、

でていけ
ぜったい入ってくるな

だれか、

あに・・う・・―


来ない。


頭を振って尚も蹲る。
もうこれ以上小さくなれないと思う程、体を強張らせて震えた。


なぜいまは信じられないのだろう?
いつも来てくれるひとがいるはずなのに

なぜいまはしんじられないのだろう?





『おやおや…おとなしくなさって下さいよ…』

『出ていってください!!兄上が、こんな不当な扱いを受ける理由なんてありません!!』



知らない
しってる



『くくっ…理由なら勿論ありましてね…弟君は御存じない様子で…』
『何をですか?』

知ってる
しらない

『そりゃあ、お話するわけがありませんなぁ?』
『…な、にを?』



―私がしらないということを


『…では教えてあげましょうか?足利の若君はですね…』


私は、知ってる。



「足利高氏」はもう、私だけの『兄上』でいてくれないのだ






畳に突っ伏した姿勢のまま目が覚めた。今度こそ訪れた朝は、雨の後だから妙に爽快な空気をしている。
朝というには少し遅いのか、昇る光源はいつもよりずっと高い。
体を延ばすようにしてやっと起き上がると、すりきれた踵がぴりと痛んだ。

「……」

昨夜の跡。
倒れた手桶と投げた巾はそのまま、零れた水はもう乾いている。

それ以外、何もなかった。

不審に思われないように、何とか体を動かして室の中を片付け、身仕度を整えた。
昨晩とは違う暖色の光に誘われて障子を開け放つ。
ゆっくりと縁側に出て腰を下ろせば、それはいつもと何ら変わらぬ風景だ

隈無く照らしだしてほしい。
そうすれば紛れないでいられる。

日差しの熱に浸って陶然と目を閉じた。ぶらぶらと下ろした足を揺らせば、踵の傷に風が染みる。



――・・昔から自分はそうだった。
何か自分では抱えきれないことがあっても、それを上手く外に表すことができない。
ただ一人で押し込めることばかりが巧くなって、段々その方が楽にすらなっていた。

誰かにわかってもらうより、自分で背負いこんだ方が効率的だ。
他人の気を、患わせないで済む。

日差しは暖かい。昨日のよるのことなんてすべて


「…!直義!」

後ろで聞こえた声に、ぎょっとして振り向く。廊から障子を開けて顔を覗かせたのは、極り悪そうな顔の兄上だ。

「兄上…」
「さっきから…呼んでも返事がないから、」
「…」

いつのまに



「直義…朝餉、は?」

聞きながら、兄上は室の中に入ってくる。しかし縁側までは出てこずに途中で立ち止まった。
その足元を何となく見ながら、一歩遅れて答えを考える。

「…あんまり、」
「欲しくないのか」

覆い被される声にびくりと顔を上げる。見上げた先の瞳は少し険しい色をしていた。
気圧されてすぐに俯く。振ってくる声は低く、静かだ。

「食欲が、ないのか?」
「……」

答えられずに黙りこむ。大きな溜め息が聞こえた。

「直義、…何か我慢しているんだろう?」
「……いえ、なにも」

さっきから上手く答えることができない。
昨日の夜から閉じ込められたままの感情が、まだちゃんと体の中に戻ってきていないみたいだ。

違う。ずっと前から、兄上が飛び出してしまったあの日からまだ鍵を掛け終えていないのか

早く元に戻らなければ、

だがその焦りすら、ちゃんと取り戻せない


「そんなわけがないだろう」

肩をつかまれて、無理矢理目を合わせられる。

それでもまだ、私にも兄上にも見えてないものがあるのではないか


「俺に嘘をつくのか」
「…うそ?」

首を傾げて繰り返す。

「直義は嘘はきらいですよ?」
「…お前、」

「私が嘘つきだなんて、変な兄上」

笑うつもりなんてなかったのに、勝手に喉の奥からへらへらと笑いが漏れてくる。
堪えもせずそのふざけた音を垂れ流せば、兄上は眉を吊り上げた。

「直義っ!!」

揺さ振られて笑いが急に止む。そのままひたりと、私は前を見つめ返した。
目を凝らしてみる。兄上ではなくてその向こうに


「直義」

「…兄上は何にも気にすることはありません」

どうしたらいいのだろう
兄上は傷ついているのだ
私なんかよりずっと
どうしたらその痛みを、
「だって、『あれ』は悪い人たちなんでしょう?」
「…わる、い?」

「はい。兄上を困らせる人は、私にとって、皆わるい人です。
だから兄上は、早く忘れてしまった方がいいです」

「…直義、」

「?」
「……ごめん」

兄上は泣きそうな声で言ってから、縋りつくように私の背中に腕を回した。

「…ごめんな。俺のせいだ。ごめん…っ」

大丈夫だ、と言いたいのに

「…もうしないから、直義に、…嫌な思いさせたりしないから…、」

言葉にするのがもどかしくて、肩口に顔を埋める。
兄上が謝りたいのは、きっと私に対してだけじゃない。
そう思ったから、ただじっと聞いていた。


「…直義、」
「?」
「室を変えてもらおう。俺が母上に頼んでくるから…」
「…」

「な?」

まるでせがむような口調で言いながら、兄上が腕を離す。
こくりと頷けば、少しほっとしたように笑った。


もう痛くありませんか?
私は平気だから


・・・平気、なのに






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