ちちち、と小高く震える声がする。あ、と思い出して思わず立ち上がった。慌てて押し入れの戸を開けて
顔を突っ込む。中に閉まってある櫃から、いつもの布袋を取りだした。
持ち慣れた重みとさらりとしたした感触に目を細める。何処かふわふわと、浮かれているようでもあった。

「ね、兄上、」

きょとんとしたままの兄上に駆け寄る。袖を引っ張って庭先に向かせた。

「こっち、お庭を見てください」
「…ん?」

「驚かせたら駄目ですよ?じっとして、見ててくださいね」

くすくすと笑いながら小声で囁けば、兄上は首を傾げながらも頷いた。
その横に座っていつものように米粒をぱらりと投げてやる。
数羽の雀は待ちわびていたように、せわしなく觜を動かした。

「ね、可愛いでしょ?」
「…ああ」

得意にさえなって笑いかければ、兄上も微笑んだ。だからもっと嬉しくなって、また米粒を投げてやる。

「随分懐いてるんだな」
「だって毎日、ちゃんと忘れずにご飯をあげているんですよ」
「…そうか」

もうあとちょっとで終わりだ。投げた米粒の量は、決めた数にどんどん近づいている。

「あとちょっとだから、兄上もあげてみますか?」

身を乗り出して隣の顔を覗き込む。
びっくりしたように目を見開いた兄上は、ゆっくりと目を伏せて小さく笑った。

「俺はいい」
「何でですか?」

「逃げてしまうかもしれない」
「そんなことないです」

「…いいから。…ほら、待ってる」

指差された先に視線を戻す。急におもしろくなくなって、ちょっと乱暴に残りを投げた。

「まだ欲しいみたいだ」
「今日のぶんは終わりです」

「量が決まってるのか」
「だから兄上もやってみればよかったのに…」

口を尖らせた自分に苦笑して、兄上はまた庭先に目を戻した。

「…、兄上」
「ん?」

その横顔を見ると
ちり、と頭の隅が灼ける。





「ね、直義はいつもと同じでしょう?…もう心配なんか、しないでいいですから」
「…ああ」

少し複雑な色で視線が刺さる。ちゃんと見返そうと思ったけれど、徐徐に焦点がぼやけた。

灼ける感触が急かす。
焦り、を取り戻せたのかもしれない。

あの横顔が恐くなるときがある。普段どんなに気付かないふりをしたって、私の知らない兄上は増えていく。

何もかも

いじればいじるほど絡んで結び目が堅くなる。そう思うから触らない。踏み込まない。捕まえようと、
甘えようと伸ばす手が愚かなのは知ってる。だってそうしたら、『私』が重たくなってしまうのだから。

だけど自戒、とも違うそれはたまに心を空っぽにする。

「ぁ…」

指先が小刻みに震えていた。さり気なく袖口を引き伸ばして隠す。
視界の隅にはまだ、小さな雀が無邪気に跳ね回っていた。

「……」

ぺたりと地面に足をつけておりる。踵の傷に今度は砂がついた。じゃりじゃりと踏みしめるたびに、
痛みは異物感と合わさっていく。

「…直義?」

一歩一歩近づいていく。踏み込んだ距離は自壊だった。誰かでなく自分が崩している。

いけないのだ。
逃げられてしまうのだから


…ほら


「…やっぱり、」


飛び去る姿を見送らず、くるりと振り返る。数多の影が頭の上を横切って、それすら厭わしく手を掲げて隠した。

「ねえ兄上、もしも私よりもたくさん、美味しいご飯をくれる人がいたら、もうここには誰も来なくなって
しまうでしょうか」

何故そんなことを聞くのか、と思うだろうか。
返る声にも表情にも、やはり躊躇いがあった。

「…そんなことはない。」
「本当に?」
「直義が大切に世話しているなら、そんな簡単にいなくなんかならない」

「兄上が言うならそうなのかな」
「ん?」

「私にはよくわからない」

ごまかすように笑う。どうしようもないぐらいに苦しかった。


つまらない喩、それに気付いてほしいわけではなく
なのに私を満たす答えを、聞きたいとせがんでいる



わからない。
わかってる。

もうこんなやり取りには飽きているのに。

「兄上」

甘えたいのかもしれない
昨日からとても寂しいのだ。

泣きつかれて眠ればよかったのか

あんなものをみるよりは


「…今日は私、兄上を呼んでばかりですね」

浮かんだ笑いは自嘲だった。

小さな場所で大切なものだけを守って、それが幸せ以外の何だと言うのだろう?
変わらないことが私だけに許された贅沢だなんて、こんな形で知りたくはないのに

「足が汚れる」

立ち上がった兄上が、縁側から手を差し出す。掴み返すと、ぐいと手前に引っ張りあげられた。 その力の為すがままに地面からまた縁側に上がる。

「…あにうえ」

手を握ったまま俯く。私より少し高い肩に首を倒した。
ほんの少しだけ泣いてしまいそうになる。ゆらゆらと揺れて、不安定な波紋が幾重にも折り重なっては消える。

「ん、…どうした?」

兄上がこちらに首を動かしたのだろう。結んだ髪が揺れる、小さな小さな音がした。

怖かった、・・今も怖い
寂しかった、・・今・・・は、

「昨日のお怪我はもう痛くありませんか」
「…うん」

聞けた。兄上は返事をしてくれた。それでもこんな薄っぺらい言葉で、一体何を伝えられただろう。

「よかった」

ゆっくりと頭を上げて離れる。
私の中の小さな隙間を照らすのは、それこそ小さな灯りで十分なのだ。
勿体ないぐらい、
…兄上ほどの光が、私にはただ眩しいだけなのかもしれない。

だけれどこの影を照らせるのは、たった一つしかないから


「では直義は、お引っ越しの支度をします」

「あ、母上に、今聞いてくるから」
「はい」


きっと欲張りだというのだろう。


取り戻した焦りは取り残される寂しさ
なのに私は、『今』から出たくないのだ―…

ぱたぱたと駆けていく足音が消える。


思い出したように足元を見ると、汚れた足跡が後ろを追い掛けていた。

無感情に見下ろしてしまう。


・・・室を変えたらきっと、もう雀たちには会えぬだろう。






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