「精神病紛いのお題」


※このお題は、梅が勝手に作成したものです。
著作及びそれに付随する権利は、梅に帰属します。



『お題に沿って、適度な長さで、 場面を描写せよ』

1、抑圧
2、投射(他の代理的な対象)
3、愛他主義
4、攻撃者との同一化
5、空想的虚言





1、抑圧

番外編『綺羅綺羅しく花咲かせ』の後の場面で



「…ちゃんとここにいますから」

あやしてやるのだと思った。

膝の上の疲れた兄の寝顔を見下ろし、時折髪をいじったり、右肩の上をとんとん とか細く指先で叩いたりしていた。
自分と兄を抜ける風は穏やかで、直義は満足そうに目を細めた。
くっきりとした 鳥の声を聞いた。そうしてしばらく外の空を見上げ、全てがこれでよかったのだ と思える気すらしていた。

声が止み、静寂が訪れた。

…直義は動きを止めた自分の指を見た。

身体中から、兄の血の匂いがした。





戸に手をかけたところで、片手で支える桶の中の水が揺れた。
持ち直そうと戸の手をいったんはずしたところで、師直は予感のような異変に気 付く。
静かに細い隙間を作り、中を窺う。膝の上に眠る主の頭を乗せて、横顔を影にし た少年は両手で顔を覆っていた。
ほんの些細なことで崩れそうな、彼が苦手だ。 苦々しく思う。そんな自分だからわかる。

−−…どうせ主にも、彼を扱えはしまい。


紙で切り抜いたように、現実感のない景色。

ただ漏れ出る鳴咽から、それが泣いている故だと気付いた時、師直は直義という 存在に強く戦いた。
違和感、または狂気か。頭が冴えるくらいに冷静に、この弟 が与える歪みを感じ取った。
戸を閉めて後ずさる。それでも少し、切なさが自分にも移った気がして、師直は 顔をしかめた。




兄の上にもう雫を落とすまいと、益々強く掌で顔を押さえている。

どうして知らないところで傷ついて帰ってくるのだろう。

引き止めるばかりで、置き忘れていたのは自分の悲しみという感情だ。



−−…あかいちをなぞるのに、わたしのゆびなんていみがない。

わかっているから、目を醒ます時には笑っていてあげよう。



すぐに慰めて笑ってくれる筈。


認めない。
認めない。

兄がだれかをあいし、子を、成したという。

眠る兄の心の臓が、そう言っている。


認めない。

直義はゆっくりと、目から手を外した。
そしてその感触に、違和感を覚えた。

涙を流していたはずなのに、
手はからからに乾いていた。
どうして綺麗に泣けなかったのか、直義には最後までわからなかった。








5、空想的虚言
(尊氏視点)


既視感、それは確かに覚えある光景だった。

「ちちうえ、弓をひくんですか」

珍しく着物の袖を落とし、肩を露わにした父が、斯うして的を据えさせている。庇の端から斜めに零れるような日が注ぎ、父の顔を照らす、その色合いまでも。正夢とはこうも鮮やかなものかと、少し感心する程だ。

「偶にはな、」

背筋を駈ける清々しさに、何かしら変な気分になる。父の笑う顔には、いつも何処かしら涼やかな水の気配がある。その澄んだ彩は、とても心地よくて釣られて笑う。

「弓はどうだ?」
「あまりやらないんですけど、好きです」

矢が切る音は、裂かれる空の有り様を浮かび上がらせるようだと思う。それに父がそれを引くのがうまいことをよく知っていた。伸びた背を後ろから見ると、いつだって微風に晒されている時のような空気の揺蕩いを感じられる。暫くして飛んだ矢は、矢張りすとんとますぐに的に当たった。

「高氏、何かあったのか?」
「どうして?」
「目が赤い」

目をこすって、父を見上げる。逆光で、少し視界が眩しい。

「…木を植えさせて、くれませんか」
「何処に?」
「南の…渡廊が折れているあたりに」

視界が隠れれば何でもいい。それでも、余り息苦しいのも嫌だ。ただ一度頷いて、何も聞かずに父は分かった、と言う。

「高氏、直義の面倒をちゃんと見てるか?」
「はい」

また矢をつがえて、父は姿勢を起こす。その後ろ姿をじっと目に焼き付ける。父のそんな様はあんまり見たことがない。的の中心からは少し外れた場所に突き立った矢は、暫し斜めに震えた。

「直義は、書をすごい丁寧に読むんです。せんせいも誉めてました…ちちうえに似たんだろうって。ふふ、」
「そうか、」
「でも、その…直義は体が強くないから」

室から余り出られない。けれども室に誰かが入るのを嫌がるから、何か教わったりする時は良く同じ棟のすぐ近い室を使っていた。

「この前なんて、少し熱があるのにあっちの室に居たんです」
「それは良くないな」
「せんせいも気付かないし…」

いつも弟は大抵酷くきちんとした態度であるから、そういう所は見えにくい。

「でもすごい、一生懸命なんです」
「そうだな、今度褒めてやらないと」

ごしごしと目をこすって、痒みを紛らわす。的をちらりと見れば、父は少し笑って置いてあった次の矢に手を伸ばした。弓をしならせるように確かめて、するすると歩を踏みかえる。そういえばこの前弓の弦を切ってしまった時は、馴染みの兵に弓を張り替えてもらったのだった。連日引きすぎた指が痛くて、少し情けない気分だった。

たすんと、的に刺さる音が耳に聞こえる。

「父上にもっと会いたいって、」
「あぁ。最近は体調も良いし、会って移してしまう事もないだろう…そうだな、」

振り返る父の肩の線を視線で追い、瞬く。ゆるりと、そんな角度で振り向くのは余裕を漂わせて見える。

「良かった。つい、寂しいって言ってしまって…直義は優しいから」

自分に気を使ってか、直義は余りそうしたことは言わない。そもそもあんまり何をしたいとか、したとかを多く語らない。例えば勉学のことにしても、やたら謙虚だ。余りどういうことを言われ学ぶのか、知らない。直義が一人室で書を読む時に側で見ていても、さも飽くまで兄の穴を埋めるのだと言うように控えめに笑った。それ以外の時など尚更だ。



「高氏、」

また背筋を駈ける清々しさに、変な気分になる。こくりと喉を鳴らして、必死に目を瞬いた。そういえば父は良く、頭を撫でてくれる。自分も、弟も。目の裏が痒くて、いつの間にか張っていた背は少し痛い。

「良い子にしているんだぞ、」

いつもそう、言う。父は余り本館で過ごさないから、会ったときは大抵そんなことを。

弓がしなり、四本目の矢が的を叩く。

そんな父は、直義と会う機会が少ない。可哀想に、直義は、父と余り、会えない。寂しいと、思うだろう。自分は、兄なのだから、それより父には良く会う。確かよく、弓が上手くて頭を撫でてくれて、ゆるりと笑って、そして同じことを言う。滅多に会えないから。

「…もっと、見たいです」
「あぁ、いいぞ」

弓はああやって、引けばいいのだ、父のように。じっと目に焼き付ける、覚えこむ。可哀想だ、でも代わりに、代わりがあれば、慰められる。

弓は歪む。矢が次々と突きたってゆく。

「…父上がいないと、寂しいです」
「どうした高氏、そんな」

父が病を得なければ、父も直義も寂しがらずに済んだのだろう。庇を滑った日の光が、また見たことのある角度と完璧に重なって目に飛び込む。
可哀想。可哀想、可哀想に。それは誰が、決まっている、そんな…―

あんな風に、それらしく振る舞いたい。父の代わりに、同じようにしてやるのがきっといい。

「つ、」
「父上、」

父は軽く咳き込んで弓を置いた。控えていた近従が、慣れたように素早く駆け寄って父の体を労る。

既視感がまたよぎる。見たことのある光景のよう、そう実際多分よく見ている。

直義はそっと、その閉ざされた室で待っている。自分を、待ってくれている。父は、…――。喉を絞るような咳の音は、何か酷くまろい響きで広がる。父の、身を蝕む忌まわしい響きだ。

可哀想に。自分がやればいい、矢はきっと容易く刺さる。
見つめた先で、的から微かに外れた矢がひしゃげて地に落ちている。
その凛然と確固たる脆弱さに、ほっと息をついた。



蛇足
空想的虚言<真っ白な狂気>。白昼夢っぽい意味合いもあるっぽいけど、一応今回のは現実のお話。 親の前で気を抜けないと空想的虚言にかかりやすいと聞いて。兄上の台詞はほぼ8割がた嘘。 本人に嘘をついてるつもりは無い。