「…おや、」
垂れ込める雨雲は幾重にも折り重なり、一点の隙をも許さぬ厚みで空を埋め尽くしていた。塗りたくったような黒灰色は、暑期を迎える直前の今際限無くはこびる緑の上へ覆い被さり、今にもその瑞々しい葉を湿らせんばかりである。
最高権力者である執権の座する此の屋敷は、だが水をうったように静まり返っている。輝ける権威をうたわれし棟の連なりは、その重みに相応しいだけの壮麗な造りをしているが、如何せんこの様な曇天では否応無しに重苦しく沈んでいる。それが今日に限ることではないと知っていた為に、尚更陰鬱に映るのやもしれなかった。ここのところもうひと月を超えて雨季にしても長く、嫌な雨が続いている。
恐らくは今日もいつも通り、直に重たい雨に変わるのだろう。これは早めに館に引き上げた方が良さそうだと、道誉は控えている筈の侍従の姿を探した。今日自分が此処ですべきことは全て終わっている、と馬鹿馬鹿しく反芻する。大体高時が執権を退いて以来大してお召しがかかる訳でもない。おざなりに執務を終わらせようが、それに対し文句を垂れる様な良くも悪くも、いい性格、をした人間など周囲にはいやしない…今の所は、ではあるが。
庭園を見渡すことの出来る回廊を抜けて、内門へ歩を進める。北条の近侍の者が軽く会釈をしてから外門へと続く路を開き、門を固定した。白砂と玉砂利が敷き詰められ、敷石のはきそめられたその路を迷いのない足取りで進む。だが厩の方へ視線を飛ばした刹那、道誉は思わず足を止めた。
「……―」
巡らせた視界の中に見つけた姿、は探していたものではなかったが見過ごせる様な類のものでもない。此方に背を向けて立つ姿は、ある種の寄る辺なさが透けていて人待ちの最中なのだと容易に知れた。
道誉は一つ含み笑いを漏らし、路から少し外れた垣根の傍に佇む彼の方へ足を向ける。其処まで長い付き合いでもなく、気の知れた相手と呼び慣わすには些か他人行儀な付き合いである。だがそれでも不思議と、彼と言葉を交わすのはなかなかどうして悪くない。 何時もの様に揶揄い混じりで声を掛けてやろうとして、その背に漂う違和感にふと声を詰まらせた。人の気配に鈍くあろう筈もない彼なのに砂利の鳴る音にも振り向かず、ただその白い頸を倒して俯けている。道誉は小さく眉を顰めて、右手をそっと持ちあげる。肩へ触れる刹那、わざとゆっくりと彼を呼んだ。
「足利の若君、……高氏、どの。こんな所で如何なさっておいでで?」
びくり、と高氏は大仰に肩を震わせ漸く肩に触れた手の主を辿る様にして道誉へ視線を向けた。そうして一瞬間酷くましろな表情を閃かせてから、あぁ、と返答ともつかぬ声を漏らす。
「たか…道誉どの…いえ、少し気を散じていた様です。申し訳ない」
すぐに如才無く精悍な笑みを浮かべてみせた高氏に、そういえば彼ももう齢十九を数えるのだと、唐突に道誉は思った。初めて彼を見た時、彼は十五の如何にも若々しい御当主様であった。高々四年余りの月日が最も顕著に現れる年頃だ。
「いやぁ人待ちですかな、もしやお邪魔致しましてか」
「いえ…まぁ」
曖昧に語尾を濁した高氏の口振りはだが、いつになくすげない。ばっさりと斬って捨てる様な物言いに、思わず目を瞬かせる。気安さ故の気の緩みの類ではなさそうで、実際高氏には言い繕うにせよ軽口を叩くにせよ、次の言を紡ごうとしている素振りは欠片もなかった。よくよく見れば此方を見て笑みの形に口元を繕ってはいるものの、心此処に在らずといった遠い目をしている。
珍しいこともある、と道誉は内心で首を傾げた。この足利の次期当主は、どちらかといえば人当たりは柔らかい方だ。それは実のところ年若い彼が面倒事を避けているだけだと知ってはいたが、其れにしても相当気を抜いている様である。
「……雨が」
「は?」
小さく呟く声につられ振り仰げば、細い雨筋が微かに頬を叩いた。降り始めましたか、と道誉は嘆息して軒先を示してやりながら高氏を見返したが、高氏は幾度か瞬いて言葉面への同意を示すだけで立ち尽くした其処から動こうとしない。道誉の背中越しに何かをぼんやりと見つめている。霧のような雨粒がその瞳に降り、かかる睫が重たげに震えた。既に肩はしっとりと濡れている。掛衣に縫い込まれた銀糸がてらりと光っていた。
「……折角のお綺麗な葵の色目が、群青になりますよ?」
水濡れた衣を顎でしゃくってやれば、その言葉に高氏はやっと自然な様子で小さく笑い、一度頭を振った。
「一度邸内に戻ってみます…すぐ来ると思いますので」
「…あぁ、弟君ですか」
「……えぇ」
では、と踵を返して高氏は門の方へと戻っていく。その遅々とした足取りに再度首を傾げながら、道誉は一人釈然としないものを持て余していた。
足利の時期当主がどうやら彼の弟をいたく重用していることは、有名な話である。宮仕中にあからさまにそうした態度を取ることはないが、端々の素振りで容易に知れることだ。だから別に高氏が弟を待っていたその事には、何一つ不思議なことはないのだが。
雨筋に霞む様な漆黒の瞳を、反芻する。とろけるような目線でそう言えば彼は何かを見ていたのだと道誉は思い出した。高氏の立っていた位置に歩を進め、垣根の向こうをぐるりと見渡す。
「……、」
濡れた衣の色を揶揄った先程の言葉に、高氏は苦笑混じりだが素直に笑みを零していた。
――視線の先に覗いた控えめな彩は、降り始めたばかりの細い雨を悦ぶように艶やかな葵。見事に咲いた紫陽花は、だが見詰める視線をまるで介さぬ態で、ただ静かに華を垂れていた。
「直義」
廊の角を曲がってきた人影に、高氏はほっと息を付いた。庇に入り、此方に来るのを待つ。
「兄上、…わ、降られたんですか」
「ああ、庭の方まで出てたら急にな」
うすらと濡れた袖を持ち上げて、軽く肩を竦める。直義は懐から巾を取り出して手を伸べた。擽ったさに少しだけ首を引きかけて、それを見越した様に滑った指先に引き留められる。丁寧に拭うその仕草を追いながら、高氏はもう一度小さく息を吐いた。
「お疲れですか…?」
「いや…」
そっと細い手が下ろされるのを横目で見てから、高氏は凝っと弟の顔を見返した。見慣れた白い顔には今は少しばかりの困惑が滲んでいる。ちらりと足元に視線を逃がしてから、言葉を継ぐ。逡巡に似た高氏のその素振りはだが、直ぐに掻き消えた。
「今日は、どうだった?」
「あ、はいまた収穫の見積もりをお手伝いしてました。…書簡がこんなに積みっぱなしだったんですよ」
手を広げて山積みの其れに憤慨してみせた直義に、思わず吹き出す。それは大変だな、と言いつつこんなにか、と手真似してやれば直義は顔を赤らめて、少しだけ拗ねた様に視線を反らせた。
「悪い悪い、少し気になって」
「もう兄上たら、平気ですよ」 「ん、」
窺うようにして北条の下男が持って来た傘を受け取って、高氏は白砂利に足を踏み出す。並んで歩き出した直義の方に傘を傾けつつ、また其の横顔に視線を向ける。
「そんなに山積みだと、間に合うか危ういな」
「そうですね、また去年みたいに手落ちがでるかも…」
足下で滑る石が擦れ、高い音がなっている。門を出れば、護衛が待っている筈だ。
「でも和氏どのも一緒にやってくれてますし…きっと大丈夫です」
「……あぁそうか」
弟に気取られぬ程度に足の進みを緩める。雨粒が傘を叩く音がしとしとと、歩く度に鳴る衣擦れの音と響いていた。
思いの外冷たい雨だ。 ぼんやりと浮かび上がってきた鬱屈に、うすらと下の上を苦味がよぎる。庭池の水面を揺らす雨粒が描く軌跡が、段々と乱れていくのを、高氏は何処か遠くに見た。
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