「…直義、」
覗いた室には尋ね人の姿は無く、高氏は首を傾げた。
先程帰ってきたばかりなのだから、まさかまた出掛けたという事は無い筈だ。ふらふらと室に上がり込んで、卓の側に腰を下ろす。さらさらと降り続けている雨音が、締め切られた戸の向こう側に満ち満ちていた。 片膝を立ててその上に肘を付いた高氏は、しばらくの間じっと座りこんでいた。時折掌に視線を落として、指の腹を擦り合わせて退屈を慰める様な仕草を繰り返したが、直ぐにまた動きを止める。
「……」
停滞した空気の中で、更に何かひどく鈍重なものが通り過ぎるのをじっと耐える。一瞬先程見たばかりの揺れる水面を思い浮かべたが、水面を貫いて深く沈んでいく石が連想されるばかりで欠片も落ち着かなかった。
聞こえてきた足音に高氏は、はっと我に返る。扉越しに名を呼び掛けて、しかしすぐにまた肩をおとした。
「…高氏様、」
「師秋か…」
少しだけ目を見張った男に、高氏は何故か視線をあわせることが出来なかった。男は静かに室に入ってきて戸を引く。無音で閉ざされた戸は、刹那溢れた雨音をも閉め出した。
師秋は一度深々と礼をしてみせてから、室の隅に控えて高氏に何も聞こうとはしなかった。手に抱えたままのものを見やって、迷いつつ声をかける。
「…書庫か?」
「はい、直義様の…」
「ああ、いい、分かってる」
手招く様にして、高氏は自分の斜め向かいの小さな台を指し示した。師秋が其処へ書簡の束を置いたのを見計らってから、座れ、と呟く様に命じた。
大人しく畏まって座した師秋に、そのまま掛ける言葉を失って、高氏は黙り込む。何を言いたいのか、明確には分からなかったというのもあるが、其れは単に言い出す機会を逸した哀れな沈黙であった。 師秋は暫し高氏を見つめていたが、ふと視線を和らげた。何処か宥めるようなそれに気付いた高氏も、漸く微かに力を抜く。そうしてからちらりと笑みを浮かべて、年の離れた弟の執事を見やった。
「……師直にお前の爪の垢を煎じて飲ませてやってくれ」
「どうか、致しましたか?」
「あんまりしつこく気落ちの訳を聞くもので、つい」
五月蝿いと叱りつけて逃げてきてしまった、と童の様な言い訳を弄した高氏を、師秋は流石に些か驚いて見返した。苦り切った顔に、だが単純な困惑を見出す。気遣う言葉を煩わしいと蹴った筈の高氏が、師秋を窺うようにしていることに気付き、そっと声を掛けた。
「…お気がかりな事がおありでしたら、どうぞお気になさらず」
「ん、」
穏やかな口調に、躊躇いつつ言葉を継ぐ。
「…直義は、上手くやってるか」
「と申しますと…」
「忙しいと、聞いたから」
それで、と何処か慌てた様に言い募る高氏に師秋は不意に不審の訳に思い当たった。先月、繁忙期ゆえに行われた異動で直義は秋を前に収穫の算出に回ることとなった。先年の不作が響き、その見積もり内容が複雑なものとなっている為の増員だ。だがよくよく考えれば、幕府へと入った年から今まで直義が高氏の管轄下以外で勤仕したのは初めてのことである。流石に今までも共に作業をしていた訳ではないが、形の上でも別の勤めをするのは此れが初めてだ。やはり勝手が違うのだろうと、戸惑う様な高氏の目線に師秋は一度ゆるりと首を振った。
「恙無く、お勤めなされておいでです」
「……」
「幸いにも長崎の者もおりませんし…他の方々も良くして下さいます」
安堵足りうることを紡いだ筈の師秋はだが、強い視線に其の先の言葉を詰まらせた。高氏は寧ろ睨みつけるようにして、師秋を見返す。室を走った緊張に、だが最初に目を逸らしたのは高氏の方だった。
「…そうか…ありがとう」
「……いえ」
据わりの悪さに、ぎこちなく姿勢を正した師秋を見遣り、高氏は気まずげに眉を寄せた。
「すまない…いや違うんだ…師秋…」
「…?」
「……俺、は」
断続的に響く雨音は、霞むように頼りなげな声を溶かしこむ。迷う視線が落とされて、あからさまな自嘲に口元が歪んだ。――……同時に気付いた音に、師秋は目礼して立ち上がり、一二歩距離を取る。分の弁え方を知悉したその動作に、だが高氏は静かに安堵の息をついた。
「兄上、」
「……直義」
師秋と同じく書簡の束を腕に抱えて、直義は室の戸を開いた。室を見渡した直義は、師秋に目を留めると問うように視線で促す。直義の視線が台の上を通過したことを悟った師秋も、笑顔で一礼すると静かに室を後にした。
一連の動作を見て、内で騒いでいた某かが静かに鎮まっていくのを高氏は感じていた。…愚かな真似をした、もしかしたら自分はあの男にいっそ気付いて欲しかったのかもしれない。無聊を託つ振りをして、誤魔化していた筈の鬱屈を。
握りしめた手には、だけれども噛みしめた口惜しさに反して大した力は入らなかった。 雨は、降り続いている。
「…なぁ直義、」 「はい」
「何か欲しいものはあるか」
墨を擦る音が止まるまで、高氏は凝っと直義の横顔を見つめていた。卓の横に胡座を構いた高氏の方に、直義は首を傾げて向き直る。
「…いきなりどうしたんですか?」
「いいから」
ことりと硯の端に墨を置いて、直義は口元に指を宛てがう。その微かに黒く汚れた指先を見ながら、つらつらと先を繋いだ。
「新しい当り箱を作らせるか、筆もいいな…あとは青藍の紐小刀とか…ああもう何でもいいんだ」
「ええ?…あの、でも…」
「…欲しく、ないか?」
「それは、嬉しいですけどっ…、で、でも」
肩を落とした素振りに、直義は言い募る様にして言葉を継いだ。高氏は軽く笑って、膝を引き摺り隣に腰掛け直してから、その細い肩にごく軽く寄りかかる。
「兄上…?」
「……暫く忙しいみたいだしな、慰労だ。何でも言え、言わないなら俺が勝手に決めるからな」
「ふふ、そうですか。では何か考えます」
くすくすと直義は笑って、傍らにあった紅の筆を手に取った。擦った其れに筆先を浸して、さらさらと先程帰途で語ってみせた幾つかの案件を書面に起こしていく。
淀みのない運びを目で追いながら、高氏は浮かんでは消える幾つかの物品を持て余していた。どうせなら綺麗な青の映えるものがいい、きっと似合うだろう。ぼんやりと描いてみた彩が思いの外鮮やかで、うっそりと笑う。筆の走る音だけを聞いていれば、自然と気分は落ち着いた。
しろい指先は器用に動いて、真白い紙の上を文字で埋め尽くしていく。高氏は最早一つ一つの字画ではなく、その二つの色を追っていた。肩に触れたまま、だけれど静かに身動きを止めて音を潜める。真摯な顔で書を見つめている直義は、そんなちぐはぐな気遣いに少しだけ口元を緩めた。
粗方書ききり筆を置いたのを見て、高氏は寄りかかった其処にいきなり体重を預けた。屈託なく笑いながら、直義は兄上、と軽く肩を押す。けたけたと笑い、ああ遠駆けに行きたい、と大袈裟に愚痴ってみせてから高氏はそのまま板張りの上に寝そべった。
長雨は途切れず、高氏が斯うして唯直義の書を眺めて時を過ごすのも最近ではいつものことだ。愚痴の内容にしたって、ここ数日一向に代わり映えがしない。
「…何か、読みますか?」
「お前が読んでくれ…難しいのじゃなく…説話とか軍記とか」
暇には暇だが、どうせ日頃避けてることを始めても途中で投げ出すに決まってる、と呟いた高氏に直義はひとつ笑みを零すと、書棚から適当な書簡を引っ張り出してきた。繙いた字面をざっと目でなどり、然うしてゆっくりと読上げ始める。
さらさらと降る水の音は最早馴染んで、意識に留まることもない。耳朶に触れる通る声だけに揺られ、高氏はいつしか誘われるままに眠りにと落ちていた。
――……投げ込んだ石が、深く水の中へ沈む。刹那高く上がった飛沫はだがすぐに静まり、美しい波紋を描くこともない。ぼんやりと渦巻いた憂さを、そのまましばらく抱えていた。
足取りを遅め、傘を傾ける角度を忍びやかに計る、その微かな所作。口をつく名に、知らぬ場で気を配る姿に、沸き上がった感情は安堵では無く苛立ちだった。浮かんでいるだろう笑顔に苛立つ、なんて。今までにそんなことが。何時も、誰にでも、笑っていられるような平穏を望んでいた筈なのに。
…でも他の誰かが触れるその行為を厭うているのに、自分の其れだけに気を許しているのも知っていた。
室の中へと閉じ籠らせている長い、雨空。無為に身を委ね意識を飛ばせば、滲み出すように隙間から覗くもの。
呼ぶ声が聞こえた気がして、覗き込む瞳を見返す。室の水気にしっとりと濡れた茶にゆっくりと手を伸ばし、滑らかな頬の線にそっと触れた。はらりとかかる髪を掻き分けるようにして、指先を潜らせる。撫でた柔らかさを、惜しむように手のひらを押しつければ、じわりと熱を感じた。身じろぎひとつしない滑らかな線を追って、すいと手を引く。物言いたげな其処を、ゆるりとなぞって象る。
指先で触れている場所がゆっくりと、動き、喉を震わせる。
「……あにうえ」
唐突にはっきりと聞こえた声。 まるで貫く如き勢いで頭を刺し、高氏は弾かれたように体を起こした。
「……た、」
「魘されてました…大丈夫、ですか?」
「ん…、あぁ…」
瞬間落ちた沈黙に、駆けあがるように頭の髄に熱が走った。
高氏は慌ただしく立ち上がり、急な動作に目を白黒させた直義に早口で目が覚めたら用を思い出した、とまくしたてる。
「じゃあ…ちょっと行ってくる」
「は…はい」
辛うじて室を飛び出すまでは留めていた駆け足で高氏は自室へと戻り、戸を閉めた其処にずるずると座り込んだ。
大した距離を駆けた訳でもないのに、掠れた喉が高く鳴る程までに息が切れている。目眩がする程の火照りに顔が熱く、這わせた指が震えているのに高氏は愕然とした。
夢現に、何を。
「……!」
思い返した全てに、大声で喚き散らしてしまいたくなる。いっそ外に飛び出せば少しは落ち着くかもしれないと、高氏は半ば縋る様に広がっているだろう雨空を透かした。
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