「……若」
「ん、」


申し訳なさそうに覗き込んできた近習を、高氏は反射的に振り仰いだ。その弾みに揺れた肘が、がくりと力無く折れて卓の上を滑る。間の抜けた仕草に、傍らで其れを眺めていた師直は小さく溜め息を吐いた。

「……」


平然とした態を繕いながら、微かに赤面した高氏に近習が水差しから水を注いだ。呷るように喉を濡らして、また卓に力無く凭れかかる。その顔には薄らと隅が刻まれていて、今し方まで舟を漕いでいた頬には赤く手のひらの跡がついている。


「高氏さま…、些か最近夜更までお過ごしなのではないですか」
「……五月蝿い」

きっと眉を顰めてみせた高氏はだが、直ぐに物憂げに視線を落とす。しらと其れを見やってから、師直は散らばったままの書を何も言わずに纏めていく。恨めしそうな瞳でその動作を追っていた高氏もだが何も言葉を挟まなかった。


「…一体どうなさったんですか、ここの所。幾ら何でもそろそろ御勘気ならばお収め下さいませんと」

常の其れより更に持って回ったような口振りには、窘める以上の色が滲んでいて高氏は密かに閉口する。


「…そう怒るな、少しばかり気を抜いただけで」
「この期に及んでまだその様な…、現に執務中に居眠りをかいたりなどして、」
「…大して差し迫った案件でも無し」
「そういう、ことでは…!」


声を荒げた師直は、傍らの近習の視線に気付くと苦りきった顔で続く言葉を飲んだ。高氏は深々と溜息を吐くと、額に掌を宛い固く目を瞑る。暫くそのままでいたが苛立たしげに卓を叩いて、顔をあげた。


「出てくる」
「…どちらに、」
「良いだろう何処でも」


またつい声を荒げかけた師直は、此度は主の視線の強さに気付いて続く言葉を飲んだ。気まぐれは高氏の常の質だが、今回はどうやら本気で荒んでいるらしい。胡乱な目付きはしかし怒りというより、鬱憤めいた抑圧が透けた。


「…雨が、強いですが」
「湯を用意しておいてくれ」
「……高氏さま、ではこの書簡は何時御裁可頂けますか?」


諦めまじりに肩を落とせば、高氏はふと顔を歪めた。ああ、と一度首を振ってから窺うように顔を向ける。

「…いや、悪い…帰ったらすぐにやるから」
「は、…でしたらすぐにご支度致しましょう」
「いい、このまま出る」


いっそ首垂れた様に悄然たる姿で立ち上がった高氏は、その儘ふらふらと室を出ていく。見送った後姿の寄る辺無さに、師直は眉を顰めた。


「…すまないが追える所まで追ってくれ。まあ…撒かれたら其処まででいい」
「は」

近習に差し当たっての護衛を命じて、師直はもう一度尽きぬ溜息を吐く。高氏の懊悩の原因など知らないが、それが何に起因するものかは容易に当たりが付いた。今日にしたって殊勝にも自ら執務にあたっていたのは、そもそも常と違い、高氏が大人しく自室に居たからだ。

…喧嘩でもしたか、と考える。其れだってさして珍しい事ではない。けれども高氏の何処か己を持て余した様は、鬱ぐ態には相応しからぬ。何しろ自分なら弟と諍ったとしても腹を立てるだけだが、高氏の場合はそうではないのだ。あの様に困惑を隠し切れぬ童の様な顔をして、高氏は一体何に煩わされているというのか。


断続的な雨音は停滞した思考を席巻し、午から薄暗い室の中で、ただ乾きかけの硯だけが黒く光を弾いていた。











強まる雨足を避けて、高氏は木陰へと歩を進めた。笠を叩く不規則な雨音だけに意識を集中させて、そのまま湿った木の幹に寄りかかった。

足利の館から大して離れた場所ではないのに、人通りの無い路は酷く静かだった。白壁の陰から此方を窺う視線を除けば、何一つとして動く気配は無い。水の流れだけが騒がしい静寂には、苦い記憶ばかりが伴う。過去に犯した過ちにしろ、考え無しに館を飛び出したことにしても一度では無い。もうこの降り注ぐ音色を厭うているのかさえ、定かではなくなってしまった。それでも、ただその冷たさだけが、如何なる時でも従順に身の内の熱を際立たせることだけは、知っている。

熱、渦巻く様な熱情を。

「……」

視線を向けた先には美しい紫陽花。雨濡れた景色の中でこそ美しいその葵は清麗で、静やかな佇まいは謙虚であるのに酷く艶やかに目に映えた。


逆上せ上がった己を、何処か遠くに見つめながら高氏は唇を噛んだ。数日前見た下らない夢。たかが夢、荒唐無稽な其れに、しかし全てを奪われている。…巫山戯た、ことだ。気の迷い、なのだと。切り捨ててしまわねばならないのに。




「――兄上」
「ああ、疲れたろう。早く館に帰ろう」

何時もの如く辿る筈だった帰途。繰り返されている知らぬ名の存在は、最早高氏にとっても馴染みあるものだった。弟の口に上る幾つもの其れを、頭の隅に叩き込みながら、そっと窺う。よく知っている筈の顔貌、其れなのに雨煙の中浮かび上がる横顔は何処か知らない色を帯びて傾けられていた。

「……直義」
「は、い…?」

不意に伸ばした手で、その手を握り締める。突然の事にぱちぱちと瞬いた直義の顔をちらりと見やって、高氏は直ぐにまたそろそろと手を離した。


「……何でもない」
「、…?」
「何でも、ないんだ」



全く以て戯けた思案、許し難い情念だ。何時だって側に居たのに、今までだって極普通にそうしてきたのに、何で今になって。…触れていたい、だなんて。

寄りかかった細い木が僅かに軋んで、葉の上の雫を散らす。一際高い音で耳を叩いたそれに、高氏はふっと我に返った。暗鬱な空を見上げて、小さく溜め息を吐く。ここのところずっとこんな調子だったから、師直が業を煮やすのも仕方のないことだ。

あと十日もすれば雨期は終わり、目映いばかりの夏が訪れる筈だった。さすれば此の様な馬鹿げた鬱屈も、綺麗に払拭できるに違い無い。己の情動に怯える様な事も、一時の気の迷い、そうに違いないのだ。

「…、」

高氏はぐるりと館を回って、北門を潜りなおす。握り締められた掌が、血の通わぬ程の白さであることに気付いたのはだが、其れを見送る近習だけであった。




館に戻り直義の室へと足を向けた高氏は、だが直ぐに立ち止まる。追いすがってきた近侍の顔には見覚えがあった。


「若」
「?どうした」

一礼して息を整えた彼は、高氏に向かって直義の不在を告げた。といっても、自室には居ない、といった類のことだ。

「そうか、分かった…何処に行ったかは分かるか?」
「客人がありまして…広間でお迎えなさっているのかと」
「客人?」

首を傾げた高氏は、青年に等閑に苦労を労ってやりながら踵を返した。客人との談論に差し出る積もりは無いが、様子を伺っておくぐらいなら構わないだろう。自室へ向かう途中で広間の向かいを通ればいいのだ。
言葉の通り、どうやら直義は広間にいるらしい。回廊を挟んだ向かい側から垣間見えた其処には、人の居る気配がした。

騒がしくならぬ様にと、高氏はゆるりと歩の進みを遅める。誰彼にしても足利の名を背負う自分に、畏まらざるを得ないのは当然知っていた。元来直義への客人なのだから、余計な気苦労を背負わせても哀れだ。

漏れ聞こえる声に足を止めて、様子を伺う。話が長くなりそうかどうかだけ分かればいい。


「……ああそうです。いや、直義どのの見識には恐れ入る」
「いいえ、その様な事は…」
「兎に角明日にでも執権殿に言上してみましょうな」

ふと首を傾げて、高氏は廊を隔てて斜向かいのその室を覗く。話の内容からして、今直義とともに執務に中っている誰彼かが談合に来たのだという事は分かる。しかし其の割に、差し迫った内容では無さそうで、直義の声にも緊張の色は無い。


「にしても、此は見事な手ですな。」


広げた書をのぞき込む人影に、困惑めいた感情が過る。わざわざ大雨の中館までおとなうのだからどんな客人かと思えば、何の事はない、単なる与太話のようだ。ならばそう長くなることもなかろうし、一刻ほども待てばいいのだろう。一人頷いた高氏は、だが何故かその場に立ち尽くしたままでいた。


「錦瑟端無くも…、商隠ですか?またこれは難解な詩を」
「とくに意図のあった訳ではないのですけれど…。美しいうただと、思いましたので」


落とすように漏らされた笑い声に、じわりと赤黒い情動が滲む。鬱陶しい程に降り注ぐ雨音が、何故今は聞こえくる声をも掻き消せない様な弱々しさなのかと酷く苛立たしかった。


「はて直義どのには杜鵑に托すような春心でもおありなのですか」
「御冗談を…その様なものではありませんよ」


親しげに詩を交わす声に、高氏はいつの間にか止めていた足を、一歩二歩と前に押し出していた。さらさらと霧の様に煙るものに至っては最早、知覚に止まりもしない。


「それでは聡明なる直義どのが惘然となる程の事とは何ですか」
「いえ…それは」


曖昧な笑みを浮かべた直義が、某かの返答を紡ぐ。だがその他愛ない言葉ではなく、垂れた前髪を何気なく掻き上げる所作、その調子に覗いた手首の方が何故だか己を詰るが如くに白いと高氏は思った。文字通り詠うような口振りで、何かを言っている。他人行儀な言葉は自分に向けられたものではない、当たり前だ。だけれども。

明滅する視界に、血の気が下がるような気分になる。けれど高氏は歩を止めずにそのまま進んでいった。
相手の男はなにやら酷く感心した様に、幾度か大袈裟に頷いている。その視線は当然ながら、向かいにと縛られていて。


…巫山気た考え、許し難い情動だ。だが、そんな些事にかかずらっている余裕は、今。



手を掛けて薙げば、思いの外響く音をたてて戸が打ち開かれた。








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