「……兄、上?」
「!これはこれは…足利どの、御挨拶を欠き誠に申し訳、」
「済まないが」
慌てたように畏まって礼を取った男にだが、高氏はごく浅い流眄を呉れてやっただけで、直ぐに視線を逸らす。口上を遮る様にして押し出された声は、平坦で色の薄いものだった。
「直義、いいか?」
「え」
「其れでしたら、私めは隣室に」
困惑に揺れた直義に遠慮したのだろう、先手を打って退出を願い出た男にだが高氏はしらと言葉を次いだ。
「…雨足は強まるばかりですが」
「……え、ああ、それでは今日はこれで失礼させて頂きます、では…」
そそくさと席を立った男にだが高氏は何のいらえを返そうともしない。心無しか青ざめた顔で男は直義と高氏に向けて深々と礼を取ると、速やかに歩み去った。
「あ、の…兄上…何か…、ありました?」
本気で混乱した様に眉根を寄せた直義にだが、高氏は告げる言葉を持たずに黙り込む。横腹の上を脈打つ音が生々しく頭の髄を震わせて、出処すらあやふやな苛立たしさに歯噛みした。
「……いや、何も」
「では何か、仰りたいことが」
「いいや…」
憮然として立ち尽くしている兄の姿を凝っと見ていた直義は、ゆっくりと姿勢を正す。その顰められた眉の間に漂う困惑が、次第に勘責の色を帯びていくのを高氏は他人ごとの様に見やった。
「では、一体何故こんな事を為さったんですか?」
「…」
不審を上ぐ問いに、暫し逡巡する。理由など、抑々己にも詳らかでない。
「…急用だったのか」 「……いえ、違いますけど、」
「なら別段構わないだろう」
「そん…、」
惘然とした直義の顔に、ふと先程漏れ聞こえた詩を思い出す。夢か現か分からぬ投擲、愛し相手を思い描くままに思惟に溺れた男の詩だ。苦い笑みが浮かぶ。もう否定するのにも疲れていた。
「それとも、大切な用だったのか」
「……」
「俺、より」
「…、そういう、訳では」
狡い聞き方に、釈然しない様子で直義は項垂れる。黙って其れを見つめながら、高氏は今度は意識して無理矢理笑みを刻んだ。
「そう、だろう?」
問い詰められているのが弟か己かすら曖昧で、高氏は目を細める。こんな言葉を言い募れば募るだけ、痛みが増すばかりの様な気がした。
「…でも、そんな…」
「気にすることじゃないだろう、現に食い下がりもせずに帰ったじゃないか」
「…気に、しますよ」
ぱたりと膝の上に落とされた弟の掌は力無く、高氏は密かに狼狽えていた。なのに口を衝く言葉は何処か刺々しいものばかりが。
「兄上は、彼をお厭いなのですか」
「……」
そうじゃない、と咄嗟に反駁しかけて口を噤む。舌の上を滑る悪罵は止める間もなく転がり出た。
「厚かましい奴だ」
「そんなこと、ありません」
躊躇いがちに返された否定に、だが急に苛立つ。
「どうしてだ、あんな…」 「そんなこと仰らないで下さい…」
悲しげに顔を歪めた直義に、高氏は酷く捻れた激情にかられるのを感じた。
「そんなに、お前が庇ってやる義理はないだろう」
「ですが…本当に、」 「……直義っ」
籠もった音が響き、上げられた語尾を掻き消す。卓に叩きつけられた拳の強さに目を見張った直義は、寧ろ憤った様に兄を見返した。
「一体何だって言うんですかいきなりっ…兄上に、御迷惑をかけましたか?」
「そういう話じゃない」
「なら、」
「だからと言って、それなら何でも良い訳じゃないだろう?!」
身を寄せる様にして問い詰める高氏に、直義はきっと向き直る。
「兄上が何を言いたいのか、さっぱり分かりません」
「なら黙って頷けばいいだろう」
「そんなの嫌です」
お互いに釣られる様にして荒らげていく声音に、段々と目の前が暗くなる。高氏はすうと息を飲むと、立ち上がり直した。
「…兎に角、いいだろうどうだって」
「……どうでもいいのに、あんな事したんですか」
「あんな奴なんか、どうだっていいと言ってるんだ」
ふいと首を逸らした高氏を、直義ははたと睨みつけた。
「そんなの、兄上がお決めになることじゃありません」
「…っ、!」
「直義の、勝手です!兄上には…関係ないのに」
反射的に腕を振り上げた高氏はだが、勢い付いたそのまま薙ぐ様に腕を払い逃がす。
「…………そうか」
垂れた掌をきつく握りこむと、踵を返して半端に閉ざされた戸へと向かう。余程あの男慌てて出ていったのだろうなどと考えて、また燻る怒りに頬が引き攣る。
俯き黙り込んだ弟の顔を極力見ずに足を進め、高氏はそのまま真っ直ぐに室を後にした。
「…高氏どの?」
「……はい、」
じっとりとした目付きで何処とも無しに辺りを睨め付けていた高氏は、怪訝な口調で呼ばれた名に、鈍々とした動作で振り返る。呆れ返った顔で其れを見ていた道誉は、側に控えている執事の隠しもしない渋面に心底得心がいった。
「何をそう腐っておられるのですか」
それもこの執権殿のお膝元で、と態とらしく責め詰る口振りで当て擦る。常なら苦笑混じりに流すであろうに、険しい目遣いで見返した高氏は深々と溜め息を吐いた。
「放っておいてくれませんか」
「はは、そんなご様子では、ちいとも御役目進みませんな」
手足を投げ出して卓に寄りかかる高氏の側で、師直は積まれた書簡の山にだけ目を据えて、ただ黙ってその場を見やっている。そんな師直に向かって軽薄に肩を竦めてみせた道誉は、内心少しばかり驚いていた。今回ばかりは先日と違ってその滅入り様には分かりやすい理由が見える。だが奈落の底を削り取る様な激しい落ち込みぷりは、幾ら高氏といえど些か過剰だった。
「諍いですか、お若いですねえ」 「……」
同じ屋敷の中に居る直義にしても、随分と物憂げだという。兄弟喧嘩で打ち拉がれるなど、随分と幼い真似だ。あの兄弟仲からすれば分からぬ事ではないが、それにしても死んだ目で睨み付ける様には全く、覇気の欠片すら感じられない。
「どうせ高氏どのが怒らせたのでしょうて、早めに折れたら如何です」
「……あぁそう、其の通りで御座います」
拗ねた口振りで自嘲して卓に突っ伏した高氏は、そのままぐったりと打ち臥した。
「……あぁ」
何やら反芻して憤っているらしい高氏に呆れて、はあと生返事をかえす。
「仲睦ましく、和解でも何でもなされば宜しいに…」
傍迷惑な、と続けんばかりの口調に、静かに師直が眉を釣り上げる。其れを宥める様にひらひらと手を振ってから、黙りをきめこんだ高氏に近寄ってずいと覗き込んだ。
「なるようにしかなりませんからな所詮」
「……」
「だからまあ今日はさっさとお帰りになるがよろしいて」
心底呆れた表情と率直な軽蔑に、高氏は流石に不快げに顔を歪める。だが結局のところそのまま黙って一つ頷く。
「…師直」
「は、」
「一人で帰る。供は不要だ」
「……畏まりました」
渋い顔のまま言葉を飲んだ師直は、また何も言わずに高氏の背を見送った。
「…全く…青いですなぁ」
落ちた呟きはだが、ただ床に散らばって虚しく落ちた。
連日の雨に泥濘だらけの路に舌打ちしつつ、高氏はぶらぶらと館へと歩く。
道誉などに言われなくても軽はずみなことをしたというのは分かっていた。もうあんな事はしない、この前は悪かったと謝れば済むだけのことだ。なのに。
「……関係ない、」
込み上げる怒りに、また強く手を握る。分かってる、直義にしても弾みで言ったことでその場の勢いのことだ。けれども。
最近、午でも薄暗いせいで天までもが滅入って見える。かと言って晴れ渡っていてもそれはそれで煩わしいだろうと思うのだが。
高氏はゆっくりと立ち止まってからふるりと一つ頭を振った。大体下らない悋気を起こした自分が悪いのだ。だから次からは、大人しく受け入れてやれば、
「……」
思い描いただけで鬱陶しい有様に、どうしようもなく溜息ばかりが漏れる。狭量な、と詰ってみても譲らぬ頑迷さに自分で呆れた。
そもそも何故こんなことになったのだ。
「?」
ふと見やれば、木々に隠れるようにして細い小径が通っていた。青草を踏みしめて、何処か誘われる様に高氏は足を進める。
しとしとと降る単調な音が次第に耳朶を埋め尽くし、響き合う様に頭の中へ沁み込んでゆく。小降りのそれに傘を仕舞って、只管に道を辿った。
最近斯うして散策できることも少なかった。外を駈け、知らぬ道を辿るのは楽しい。
春には美しい華、夏には眩い光をはじく青、秋は紅の綵に見え、冬には清冷と。軽やかに駈けても、踏みしめる様に歩んでも、雨弾く如くに悪戯な足取りでも。いくらでも、興の沸くその万化。
「…」
開けた場所に広がった蓮池には、まだ花開かぬ幾つもの蓮葉。水辺にはそれに負けじと繁った紫陽花が、艶やかに咲き誇りその緑はしっとりと濡れていた。人に忘れられた様に打ち捨てられた四阿は、だが落ち着いた風情である。くすんだ紅はだが、鮮やかな葵の中では酷く映えて見えた。
「綺麗だな…」
息を付いて高氏はそっと四阿に歩み寄った。精緻な意匠の施された柱は美しく、入り組んだ造りは某かの古典にでも基づくのだろう、統制の取れた配置をしていた。
己の心音が聞こえそうなほどに静かで、煙る視界にしばらくそのまま立ち尽くす。 うちよせる静寂の中で、じわりと溶ける様に蟠っていたものが崩れていく。何気なく梁に走らせた指先が、湿った木の感触に思いの外馴染む。心地よさに目を細めて、高氏はゆるゆると力を抜いた。
――霧雨は音もなく池の水面を揺らす。円を描き、波打つそれはいつしか見た夢幻に似ている気がした。
名を呼ぶ声、呼びかける時に音を転がす咽喉の響き。雨音にも、現のものでもない波紋にも似た澄んだ声が、自分を呼ぶ。見返して、覗き込めば明るい榛の水晶に映り込むのはただ自分の姿だけ。従順に、狡猾に、儚げに、それでも凝っと強かに自分を捕らえ離さぬ瞳。
見上げ来る角度、返された手首の裏の色。此方を向かぬ横顔が語りかける先、さらりと米神から解れて落ちる髪の一房。指先が唯其れを掻きあげるが為に、すんなりと動いて。…口の端に上る名、親しげに熱情の詩等を語らう男。愚かな、悋気だ。だけれどもこの瞑く燻る熱は、笑顔を浮かべる相手を峻別する相手に、突き放すような依存に、何よりも全てに変えがたい衝動に相応しい。
手を触れて、躍らせた指先。縋るように呼びかけたのは、どちらだろうか。
「…あぁ、」
浮かびくる思いに高氏は小さく笑う。
見せてやりたい、と小さく呟く。笑んでくれれば、嬉しい。喜ばせられるなら、何だってしてやりたい。一緒に過ごせたら恐らく更に美しくこの目に映えるだろうに。
落ちかかる髪が雨粒を含んで重く、湿った衣はぐったりと纏わりつく。困ったものだと眉が落ちるのに、口元にはゆるりと笑みが浮かぶばかり。
――…仕方がない。 もう愛しさに、死んでしまいたい程浸っているのだ。
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