風が強い。青々と繁る緑は、しなやかな枝なりを盛んに揺さぶり騒つかせている。雨は無いが、散る水滴が厚い葉の上から滑り落ちて、はらはらと舞った。掛衣の裾を嬲る様に吹き抜けた旋風も、ぴしゃりと頬へ雫を跳ね上げる。高氏は思わず小さく肩を竦め、軽く首を振った。






昔、まだごく幼い頃は、直義は体の弱い童であった。事ある毎に熱を得、伏せれば二三日は寝込むことが多かった。

父上様も、身体がお強い方では無いから…と母は少し悲しげに笑うのみであったが、その実酷く気に病んでいたのが幼い高氏にも分かった。直義のことを気を付けてやってね、と落とす声は気丈な母らしからぬ弱々しさ。それでも、母上、と焦って幼い息子が呼べば、まあお前がいれば直義は大丈夫ね、と母は笑う。

弟が伏せる寝所には、感染るからと言って近寄らぬ様家人に度々言い含められたが、結局高氏は毎度潜り込んだ。だが寝病む童の側には常に控える者があったのだから、結局はその幼い曹司の行動を黙認していたのだろう。多分に母の直義に計らうところが、其れをさせたに違いない。

白皙の頬を朱に染め、だけれど酷く靜に眠る直義の側に座り込んで、高氏は飽かずその貌を見つめていた。時折投げ出された手のひらに、己が其れを重ねたり、水差しの滑らかな入り口の縁から水滴が流れるのを眺めながらも、只管頑なに閉ざされた眼が醒めるのを待った。

そんな折、浮かびは消え行く取り留めもない思考は、なぜか場にそぐわぬまでの穏やかさと緊張を帯びていた。

…もしも、このまま弟が眠った儘でいたならば、自分もまたこのまま此処に座り込んだ儘になるのかもしれぬ。そうしたら、この室から眺められるものしか、もうこの先見ることは無いのやもしれない。其れは少しだけ詰まらないことの様に思えたが、眠る瞳は瞼を映すだけなのだから、自分だけ、という訳にもいくまい。ただあまり長く時が経ちすぎると、目覚めた時弟は自分の顔が分からぬかもしれぬ、それだけは心配だ…

そんな幼げな空想とは異なり、実際には大抵日を越せば直義の容態は大分変わり、横たわりながらも軽口を交わせることが多かったのだが。毎度毎度つらつらと病人の傍らで真面目腐った顔で考え込む童を、家人はどう思ったのか。いつの間にか飽く迄日頃の直義が好ましく思う範囲の中で、寝所を飾り立てて明るく調えあげるようになったのは純粋に幼い兄弟を思うが故の事。

だけれどもそんな周りの様子に、いつしか弟が漏らした言葉を高氏は、妙にはっきり覚えている。

―…直義が目を覚まして艶やかな花が活けられているときは、あにうえは嬉しそうに笑ってくれます。

どんな流れで交わした言葉かは記憶に無く、所々言葉の並びも怪しいがそんな台詞だった。少しばかり難解な、言葉だ。結果的に無遠慮な行為になったやもしれぬ自分の引き起こしたことに、高氏は立ち返り痛みを感じた。逆に気を使わせたかと密かに気を落としても、病床でありながら自分と語らい愉しげに笑う様は酷く嬉しそうにも見える。

その葛藤に何を思ったか。寧ろ斜め上にいっそ、と思い切った高氏はある日家人に頼みこんで館を出、自分で花を掻き集めにいった。小さな腕に抱え切れぬ程の其れを、よたよたと持ち帰れば丁度目を覚ました直義は、瞠目してから大層可笑しげに笑い転げたものだ。



何時しか背丈が延び、高氏が十を数える前には直義がそう屡々伏せることもなくなった。野山に連れ出し、駈ける様に遊ぶこともした位だ。ただ度々得ていた高熱の所為かどうか、その後も直義の躯にはなかなか筋が付かず、痩せぎすではあった。具足の痕を刻む様な体躯では足利の曹司として不状、と直義が口惜しげにすることもあったが、病勝ちであった頃より余程良いと高氏も、母もが説く。



だが今ではそう目立たぬとはいえ、やはり時偶目に映るか細さに覚える動揺には、高氏は自覚があった。

儚さは危惧、失う恐怖を誘発し。…だけれども、傾けられた後ろ姿や細い肩が、己が内から引き摺り出すものがそれだけではないのを、知っていた。

無理はするな、体は厭え。自分を頼れ、一人で塞ぐな――そんな口癖の様に繰り返す台詞は、勿論体の弱さだけに起因したものでは無い。紛うことなき本心、だが笑顔を描くには後ろ暗さが紛れること。揺れた感情はただただ動揺のみで織りあげたものだと、高氏は己に言い聞かせていた。

―…直義のことを、気を付けてやってね

そんな大切な大切な台詞に、免罪めいた物を求めている後ろめたさを、ひた隠しにして。















霧雨とはいえゆるゆると歩いて帰った所為でしとどに濡れ、高氏は小さく震えた。北条の館を退いた時はまだ昼前であったのに、もう曇天を透かす微かな夏の日が天頂から大分傾いている。結構な時間を過ごしたのであろう。寒さを感じる様な時期ではないのだが、流石に相当冷えている。

緩やかに歩むには理由があったので、館の門が見えても矢張り足を早めることはしなかった。そんな高氏を迎えた門衛は目を白黒させ、慌てて下女を呼び寄せた。

「直義は帰ってるか?」
「はい、先刻戻られました。…若、すぐに替えの衣をば、其れにその御手の―…」
「いい、」

かぶりを振って、軽く水滴を拭う其れだけを許す。このまま直義の室に行くから人払いしておけ、と言えば、ちらりと腕の中に視線を向け、頷いた。訝しむ視線が、だがふと緩められたのに高氏は苦笑を返す。若様と来たら、と言わんばかりに気安げに笑うは長く足利に勤めた女だ。下がる許可を与えてやりながら、ちらと降り続く雨景に目をやる。煙る中に映えるは、鮮やかな彩ただそればかりで、高氏はついと目を細めた。

―…なにか、ほしいものはあるか。

欲しいもの、自分にはある。ただ雨中に濡れて、佇むだけの其れ。鮮やかに映える彩を、映り込ませた其の。







室の戸は薄く開いていて、高氏の訪いを迎えた。人払いをと上申にあがった者が気を利かせたのであろう。高氏は少しばかり迷ってから、何も告げずに室へ入り込む。来ることを知っているならば、必要ないと思った。

廊から隔てられ立つ衝立の向こうで、更に此方に背を向けて書に向かう姿。常通りの定位置だが、昨日の今日でのことだ。矢張り些かの気まずさはあったが、歩みを止めずに近づいた。

何時になく辿々しく筆を手に取る直義の背が、微かに強張っているのに気付き、高氏は態と息を吐く。あと三歩ばかりの、距離。


「―…直義」
「…、あ」

思わず、上げかけた声は慌てて飲み込まれた。静謐な室の気が揺らぐ中、高氏はもう一歩歩を進める。重なり合って広がりゆくは、池面が波紋の儘。

「怒ってるか」
「……」

迷いの末に俯く様にして、直義は振り向かぬままじっと黙り込んだ。小さく頷いたそのものより、背けられた首筋に必死さが漂っている。そうしてあと一歩。



「直義、なぁ、俺は…―」



雨は続き、燻り続けた熱。たった一人の弟、守るべきただ一人。…―そう、あるべきだった。だけれど止めどない狂おしさで、結局は当たり散らし。高氏はそっと、最後の一歩を踏み出す。

「…すまなかった」

―…どうせ、譲れはしないのだ。



「ひゃ、…?!」

そうして舞ったのは鮮やかな彩の数々。

青、葵、淡紫、紫紺に近い、其れも。ふわりと視界を埋め尽くす、色。それを追うようにばさばさと、軽い音が続く。水濡れた其れが舞い、透明な雫を撒き散らす。綺羅綺麗と輝いて見えたは、酷く澄んだ光。己が彩を振り落とす様にして、舞い落ちる。



両手一杯に抱えられるだけの紫陽花の花々が、そうして全て落ちるまで。



鮮やかな軌跡を描いたはだが、その実ほんの刹那のことだった。



「?!…えっ?」
「すまない」

いきなり頭の上から降り注いだ紫陽花の山に、直義は固まりきって、目を瞬かせる。高氏は、もう一度すまない、と続けると雫に濡れ下がった直義の前髪をかきあげて耳にかけてやった。

「…な、あにう、え…」
「何だ」

幾度か口を開こうとして、何を告ぐべきか分からす直義は結局言葉に詰まる。

「…綺麗だったから」
「え?」
「直義に見せてやりたいと思ったんだ」

今度こそ絶句した弟に、高氏はちらと視線を這わす。一二度瞳を揺らして、だが静かに言葉を継いだ。

「すまない…昨日は、お前にあたった」
「……なんで、あんな事したんですか?」

小さく問い返された声音は、ぎこちなく、だが柔らかだった。

「俺は、」

ぽたりと髪から雫が垂れて、落ちる。辺りに散らばった花の山は、ただ青く、鮮やかだ。凝っと見返す瞳の榛が、ちらちらと濡れている。喉を灼く音は、だが思いの外平坦に零れ落ちた。



「…俺は、お前がいい」



凪いだ声は、打ち据えるような厳しさは無く、ただ直義の上へ降り懸かる。

「他の奴に渡してなんか、やらない」

だから、と眉を下げた高氏は、はたと口を噤んだ。







「兄上、」
「…、?」
「……あの、」

まだ律儀に握っていた筆を漸く置いた直義は、口籠もって慌てた様に俯いた。

「…あの、…綺麗です、紫陽花」
「良かった」

この青はお前に似合うと、思った。ぽつりと呟いた高氏は、だけどほんの少し困った様に笑った。

「、許してくれるか直義」
「あ…はい、兄上」

何時になく、ぎくしゃくとした和解に、どちらからともなく視線を落とす。暫しの沈黙は気詰まりな類のものではなかったが、何処と無く浮き足立っていた。



何とはなしに、散らばった紫陽花の数を数えていた直義は、手元に視線を戻して、あ、と小さく声を上げた。








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