欄干に凭れて道行く流れを漫然と眺める。

水のそれにも似た流れに、だが投じる一石を自分は持たない。
少しずれ落ちた巻き布を目深に被り直した。

空気がうだるように暑い。
照りさす日は疾うに天頂よりは傾いているのにじりじりと首の後ろを焦がし、どこか重く湿った空気は、足元から絡むように纏わりつく。じとりと流れる汗が垂れた髪を頬に張り付かせて落ちた。

「…」

橋の袂にある木陰は細いながらもいかにも涼しげで、軒下に過ごす人々も大概偶に嬲る風を愛おしむような風情である。
それでも動く気にはなれなかった。かかる橋の欄干に頭を傾けて、暑さに重い体が自然ともたれ掛かるままに任せれば、ひやりとした白木の感触だけが頬にある。

「……つめ、たい…」

どうせ行くところなどありはしない。家になど帰れる訳も無い。
欄干を囲うように回した腕の上で、眠る様に頭を下げた。





「高氏、高氏!牽いてまいらぬか、雷虎なら高資の狗にも勝てようて」
「…はい、高時様」

白砂の敷き詰められた庭園に面した階を降りて、囲われた柵を開ける。杭から外した手綱の重さはずしりと手にかかり、踏みとどまる自分の足をじりじりと引く。荒々しいその狗に辟易しながら、そっとその鎖を手繰った。

十五になり元服もした。官位を得て幕府に入ったのもつい最近のことである。

源氏の名流足利家の嫡男としての自分。それ故に朝廷の官位も授かり、幕府につとめるとなれば否が応でも役目を果たさねばならない。父貞氏は病弱なほうであったから、かわりを務める己が下手な真似をしてはそれはひいては足利家自体の衰退に響く。

高資が足利家を危険視している事は知っていたし、実際それ故の諍いも過去にはあった。だから父も自分が初めて出仕するその日何かを堪える様に肩に手を置き、小さくだがはっきりと言った。
お前に背負わせる事になって済まぬ、だが耐えてくれ、と。
父は静かな人だった。しかし穏やかな人では無いことは知っていた。ただ意にならぬ躰で背負うべきものを真摯に受け取めるのに、父は自ら縛られざるを得なかったのだ。そんな父が頼んだのだ。何事をも厭う気は無い。自分に出来ることなら何だってしよう。

それに…父に言われずとも結局守るべきものなど変わりはしない。
少し舌足らずな声はいつだって自分の為にある。
差し出された手を、向けられた笑みを守るのは自分しかいないのだ。

だからこそ何だって出来る。
自分のせいで累が及ぶことなど許せる訳が無かった。

「…っ、」

抗うように暴れる狗に手綱を強く引かれて思わずよろける。

何だってする。覚悟を決めて出仕した、そこに変わりはない。だが高時に召されてする事と言えばただただ享楽に耽ることだけ。犬合わせや田楽を高時は延々と楽しんだ。
仕方が無いのも知っている。高資らの専横は既に衆知であったし、またそれゆえに己と三つほどしか変わらぬこの執権が世を病んでいるのも知っていた。
初めこそ拍子抜けしたそれは、だが思っていたものとは違う形でのし掛かる。責務とも言えぬこれは確かに高資の思惑通りの事態だったのだ。

「ん…」

狗合わせを好む高時が為、競うようにして皆が闘犬を差し出した。結果まるで高時自身が如く遇される犬達は、確かに闘犬としてはかなり良いものらしかった。体躯逞しいそれを引きずり出すのは容易ではない。

「高氏、早よう」
「…は、」

苛立つ声に焦って手綱を強くひく。ぐんと引かれる感触がいきなり消えたかと思えば、走るように熱が弾けた。

「っつ…!!」

思わずついた膝が庭に敷かれた砂利を跳ね飛ばす。噛みつかれた脹脛から伝うように血が落ちてその白を汚した。

「あぁ雷虎、早まるでない。高資に勝ったら十分に褒美をくれてやるに」

けらけらと響く笑い声を聞きながら必死に狗の顎を外す。腕や頬を掻く爪と牙を避けながら漸く抑えこんで高時の前に連れ出した時には、完璧に息が上がっていた。

「…ぉ…お連れしました」
「む、」

控えていた高時の随身に手綱を渡して畏まる。礼を取ろうとすれば裾が垂れて足先にかかった。ちろりと見上げる視線に思わず赤面する。

「見苦しいの、」
「…も…申し訳ございません」

鉤裂きになった衣は所々解れている。髪は乱れて垂れ、冠はずれ落ちていた。砂に汚れた裾を叩いて慌てて頭を下げ直すが、高時は溜め息をついて頭を振った。

「もう良い。今日はこれで下がっておれ」
「…はい…」

足を引きずらぬよう念じながら廊に出る。そのままずるずると屋敷を出ようと足を進めるが、すれ違う随身の忍ばせた視線に縫いとめられるように立ち止まる。確かにこんな格好で外に出れるわけもない。まだ午を回ったばかりの外は明るく、人通りだってある。
どこか上滑りする思考に些か途方に暮れて立ち尽くす。足を伝う感触に、床が汚れてしまうかもしれないなどと、どこか遠く思った。


「た…?!高氏さま…!!」
「…あ、師直」

ふと前に視線を戻せば見慣れた姿があった。そういえば迎えにくると言っていた、丁度いい。

「師直、あの、胞を貸してくれないか。このままだと外を歩けない」
「……!」


蒼白な顔でゆっくりと歩み寄ってくる。何がしかの迫力に驚き、思わずまじまじとその姿を見つめた。

「…そういう、問題ではないでしょう!どうなさったんですかこれは!」
「、何を怒るんだ」
「何故怒らないのです!」

あまりの剣幕に思わず一歩引けば、赤く溜まったそれが軽く足を滑らせた。

「……!…さまっ」

音を立ててしゃがみ込んだ師直が懐から取り出した巾を歯で裂く。

「…っ」

傷をきつく締め上げる手を思わず押しのけようとすれば、睨むように止められた。

「…痛い」
「……そうでしょうとも。浅い傷ではありませぬ」
「…」

さっさと立ち上がった師直が胞を脱いで手渡す。自分の身の丈には少し大きいそれを羽織ってみれば、こちらを見る目は鋭すぎる痛みに満ちていた。

「…高氏さまは…っ、足利家の跡取りでいらっしゃるのですよ?!それなのに執権のこの仕打ち… とても我慢のいくものではありません」
「…師直、声が高い」
「高氏さま…」

何だってする
何だって、する
そう決まっている
そう決めた

それは確かに何処か、何かを白々しく削りとっていく。

飼い殺しなどという思惑が透けぬわけでもなく、それでも自分がまだ無力な子供でしかないことも知っていた。周りの全てが自分に向ける目が、他でもない自分を思う故だと知っている。しかしそれでも別段困ることがある訳でもない。

守る全ては変わらずにある
自分は守るその為に為しているのだからそれでいい

耐えるという感覚などとうに麻痺してしまったのかもしれない


知っている
杭に鎖で繋がれたのは、あの狗だけではないと





「高氏、」

山吹の刺繍を刺した打掛が鮮やかに翻る。含むように流される目には憂いがあった。家に帰り、室に入った自分を迎えたのは母清子その人であった。

「…、怪我を?」
「すいません母上…衣が駄目に」
「そんなことはどうだっていいのよ、師直、この子に着替えと…薬師を呼んで頂戴」
「…そこまで」
「黙らっしゃい」


ぴしゃりと言い据えられて黙り込む。母は聡明な人で昔からはっきりと物を言ったし、そして大体それは正しかった。

「大丈夫です母上、大したことありませんし…」
「十分大事です。師直の方が余程正しい反応よ高氏。」

再度黙り込めば、母は軽く溜め息をついて手を伸ばし、ずれた冠を取ると髪を梳いてくれた。

「高氏、余り無理をしては駄目…お前はまだ十五なんだから」
「…もう、十五です母上。それに無理などしてはいません」

言い募ればやはり小さく息を吐いて母はこちらを見つめる。

「…高氏、お前は確かにこの足利の跡取りです。でもそれ以前にこの母の息子でしょう」

結い上げなおした髪から、頬の擦り傷をそっと撫でて母は手を下ろす。

「嘘をついても駄目よ」
「そんな…こと…は」

つぐ言葉を持たず、困って母を見返せば、一瞬苦しげに目を落とした母がゆっくりと笑んだ。

「…とにかく、早く手当なさい。直義がお前の帰りを聞いて待ちわびてます」
「!はい」

自分のやるべき事を見失ったことなど無い
見失なえる訳もない

母は何かを言いたげに一二度口を開いたが、不意に髪を後ろに流してゆっくりと身をひくと、薬師と入れ替わりに師直を伴って出ていった。残された視線は酷く静かに自分を責めていて、撫でられた傷が小さくいたんだ。





「おかえりなさい、兄上」

きちんと整えられた室で、直義は書を認めていたらしかった。
庭に向かい細く開かれた障子からは、この暑い夏でも涼しげな風が吹き込みその墨の香を散らす。爽やかに晴らすような空気に、自然と息をついた。

「…ん、ただいま直義。書を、やってたのか?」
「はい、直義も来年は十五ですし。」

にこりと綺麗に笑った顔が何故だか切なく響く。

「早く兄上をお助けできるようになりたいです」
「…そうか、それは頼もしいな」

笑いかければ、直義は小首を傾げてまた笑みを零した。

直義はたったひとりの弟だった
自分が守るべきたったひとりの


この笑顔を守ってやりたいから自分は何だって出来る。何だって耐えられた。

大切だ
大切にしてきた


でもだからこそ

「……兄上?お怪我をなさったのですか?」

掛けられた声に、はっと腕を隠せば見つめる瞳が小さく揺れた。

「…!い…いや。ちょっと引っ掛けて…」
「…」

みるみるうちに曇る顔に、締め付けられるように胸が痛む。



稚拙な嘘など直義には簡単に分かってしまう

笑っていて欲しい
悲しませたくなどないのに

自分を慕ってくれる弟は酷く聡くて、いろんなことを見抜かれてしまう。

たった十五の自分が隠しきる術を持たないのが悔しくて堪らない。
出仕が始まってから、何度、何度自分はこの優しい弟を

「兄上…、」

直義は何一つ悪くないのに、そんな無力に噛み締められた唇が全てを理解している。弱いところなど見せたくないと思うのに削がれていく感覚に、次第に自然に浮かべる笑みすらが、ぎこちなくなるのが自分でも分かっていた。

「た、直義…あの、」
「…、」

ふるふると首を振った直義が、いきなり顔を上げて笑い返す。

「すいません兄上。…ちょっと、書の写しが上手くいかなくて落ち込んでいたんです。」


綺麗に整った字を、自分は知っていた。



突き刺さるように優しさが痛い。

悲しませているのも
無理に笑わせているのも

他ならぬこんなに守りたいと思っている筈の自分で

何でもする
削がれていく自分に必死に言い聞かせても、零れていくものが止められない。

師直は怒った
母は悲しんだ
直義は笑って


守りたい全てを傷つける術しか持たない自分


余りにも無力な



「っ……、」
「あ、にうえ?!」

熱く込み上げてくるものに、身を翻して室を飛び出す。追いすがる声が、今は何より痛かった。

泣いてしまう
優しいその手に


でもそれでは駄目なのだ
守ってやりたいのに




それなのに。





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重責と追慕と捧ぐ偽りの
紛う事無きそれは、