凭れた欄干が小さく軋む。前髪をなぶって吹く風が小さくそれを揺らした。
「…」
のろのろと頭を上げれば、相も変わらず人通りの多いそこは熱に満ち満ちていた。天頂から傾いた日差しは矢張りぎらつくように強く、溶けるように熱い。陽炎の様に濁る視界に何度か瞳を瞬かせれば、汗を伝って落ちた涙が急に明瞭な景色を結ぶ。被った布がさらりとずれて流れ、そのままただ前を見つめれば、不意に落ちる水滴が欄干についた手を叩く。揺らぐ景色が酷く遠くて、吐き気にも似た疎外感がじわりと込み上げてくるのを感じた。
家を飛び出して闇雲に走ってきた。見知らぬ市の並びには覚えがないし、自分を知るものも多くないだろう。ただ母や叔父が度々言うので、出先で身を隠すのは慣れていた。家の者に見つかりたくない今は余計に好都合だ。目深に被ったこれが少しは役にたちはするだろう。
溜息にもならぬ声を漏らして、ぐったりと凭れかかる。
酷く疲れていた
暑いこの空気に呑まれてしまいたくなるくらい弱い自分がいるのが分かる。
そしてそれが一層嫌だった。
疲れた
暑い
何より弱かった
さす日差しの中でひとり、ただひたすらに無力だった
照り射す光は全てを眩ませ、塗りつぶしていく。何も考えたくなどないのに、浮かんでくるのはただ虚しく反芻し続ける自責のみ。あてもなく出てきた、其処に帰れるという慢心があったのかなどは分からないにしても、下らない感情のせいで最早これ以上何処かへ行こうとすることさえ億劫だ。
身勝手な怒り、独り善がりの憐憫。 叩き壊す術を無意識に探し、
その刹那、いきなりぐらりと視界が揺れた。
「…!!?」
どん、と突然横から加わった衝撃に思わず蹌踉めく。反射的に飛び込んできたそれを腕に抱き止めれば、白い金紗が流れて眼前を綺麗に真二つに裂いた。
「…ぁ、」
「だ、大丈夫ですか」
白木作りの橋の上で、突如浮かび上がったかのように鮮やかな彩が目を刺す。吹き抜ける風は少しも涼しげではなかったのに、不思議と軽やかに目の前の紗を巻き上げた。飛び込む勢いで腕の中に納まったのは、若い女。紺の下地に青く水面の意匠を施した、楚楚とした衣。あまりに目まぐるしく目に映る色彩に、狼狽にも似た感情をを覚えるが、ぶつかってきたそのまま女はずるりと姿勢を崩している。気遣い腕の力を強くすれば、女は弾かれたように顔を上げて、きれた息を継ぎながら途切れ途切れに言葉をついだ。
「…お、お助け下さいまし。追われているのです」
「え…?」
凛と響く声は謳いあげるようにこちらを仰ぐ。必死な様についと見れば今正に何かを追うように、辺りを見ながら橋に足を踏み入れた男が四人程。破落戸の武士では無さそうでつける着物はそれなりのものだったが、荒々しいその粗野な動作はどうにも下品だった。
巻き込まれたらしい状況を大体に理解して、女に声をかけようとした際に、はたりと向ける視線がかち合い、あ、と男の一人が声を上げた。
「!見つけたぞ!」
ずかずかと近づいてくる前に、反射的にその身を押しやって背に庇う。驚いたように強張る腕を一度後ろ手にそっと握ってから、前に向き直った。
「あ…」
「あぁ?小僧、何だ。」
「…」
男は一歩手前に立ち止まると胡散臭げに眉を顰めて、思い切り睨めつけてくる。被り布の下からじっと見つめ返せば、どこか尊大な態度で肩を竦めて言葉を吐いた。
「いいか小僧、その女は旦那様がお目付けになられたのだ。さっさとどきな」
「…、」
後ろで縋るように自分の衣の裾を掴んでいる手が小さく震えた。つまりはこの男は女を拐かしにきたらしい。この御時勢、よくある話だが旦那様と言うからには何処か身分ある主に仕えるのだろう。そう思い、後から付いてきた三人の顔をちらりと見やればそのうちの二つには確かに見覚えがあった。確か北条に連なる家のものだったように思う。大した家柄でも無かったが、うちの一人はあからさまに良い服を着ていたから多分その主本人だろう、もう一人の随身と共に高時の屋敷で見たことがあった。
選択すべき行動を、弾き出したのは確かにもう慣れたものとなった姑息な手立てであったが、それに従う気はなかった。馬鹿げた理由も自分で分かっている。子供じみたそれをだが今は隠すだけの余裕が無かった。
「…嫌がっているだろう。止せ」
「なにぃ?」
黙っていた件の主がずいと一歩進み出て男の横に並ぶ。
「貴様、儂の邪魔をする気か。儂は北条の者ぞ?」
「…」
ちろりと見上げれば男はあからさまに鼻白む。北条の名で相手が引くのだと思っていたらしい。
「この、」
横に控えてた男がずいと腕を伸ばす。避けようとした途端、脹脛の傷が走るように痛んだ。
「っ…、」
「餓鬼がっ、」
掴まれた胸倉を欄干に叩きつけられ、軽く咳き込む。小さく悲鳴を上げた女に下がるよう左腕を回した。
「ふん。これ以上痛い目にあいたくなければさっさと退くが良いて」
「…」
主の男がゆっくりと欄干に寄りかかる自分に近付く。
ずれて落ちかかる布が、吹く風に煽られてゆっくりと肩に落ちた。
「ん…?」
「!旦那様、その餓鬼…」
「ぬ?」
随身の上げた声に振り向いた隙を突いてこちらに近付いてきていた足を払う。
「ぬ、む?!」
よろよろと前のめりになった体が迫るのを横に避けてやれば、奇声を上げて欄干の下に落ちていった。
「旦那様!!」
「…早く!」
上がる水音に慌てて駆け寄る男達を脇目に女の手を取って走り出す。しばらく走り抜いて人気の無い道に出た頃にはもう日は大分傾いていた。
斜めに木々の陰を朱に染め上げていく光に、上気した頬をも照らされてぐいと腕で拭う。握ったままのその細い手を極力静かに離して、小さく問いかけを紡いだ。
「…大丈夫…ですか?」
かなり滅茶苦茶に走り抜けてきたから、自分はともかく女の足には少し辛かっただろう。肩を揺らして息を継いでいた。水の音に視線をさ迷わせれば、道の傍らに小さく清流の流れる飲み場がある。
「…少し待って」
頷いた女を置いて、据え付けられた柄杓に水を汲んでくる。差出してやれば、そろそろと手を伸ばして受け取り飲んだ。少ししてから差し返された柄杓を受け取り、相手を見返すと女は被っていた金紗を払うように両の手で顔の横に落とした。
「―…お助けいただき、ありがとうございまする」
「……あ、…あぁ」
ふわりと笑む唇にはうすらと橙の混じった朱をひいて、頬にさす紅もほんのりと朱い。流れて零れるように艶やかな黒髪が白い肌を映えさせ、そして何よりその黒い瞳が濡れて、かかる睫を押し上げるように輝く。
夕日に煌めくそれが酷く美しくて、かち合う視線に思わず息を飲んだ。
「…あ…あの…、」
「…申し遅れました。私は霞、と申します」
「…かすみ、どの?」
まぁ、と声を上げて霞はころころと笑った。金細工が揺れあうようなしゃらしゃらとした声が道端に響く。
「そんな大した身分でもありませぬ、霞、とお呼び下さいませ」
「…霞、」
「はい」
くすくすと笑んで霞は首を倒した。覗く首筋がやはり白くて、どこかどきりとした。誤魔化す様に少し早口で言葉を継ぐ。上擦って聞こえる無様さに、戸惑いながら押さえつけるように口を開いた。
「…怪我は無い、ですか?」
「いいえ、何ともありませんわ。貴方様がお助け下さいましたもの。」
ほそりとした手を口にあてて霞は嫣然と笑みを浮かべる。
呆気にとられて見ていれば、ふと傾げた首を巡らせて、その手をゆっくりとのばした。
「………それより…、貴方様こそ」
「…?」
ついと伸ばされた手がするりと腕をとる。暑く蒸す空気の中でも、冷たいそれがそろりと撫で上げた。いつの間にか鼓動が耳元まで聞こえてくる程に煩い。煌々と朱く照る夕日が隠すものに救われた気がした。
「…え…、あ」
「先程擦ってしまわれたみたいですね」
ちらりとめくれた腕には見れば確かに擦り傷がある。でも先程ぶつけてついた傷ではあるまい。心配する必要は無いと言おうとして、伝う温かな感触に声を詰まらせた。
「か…霞?!」
ちろりと見えた舌が熟れたように真っ赤に映える。
傷に伝う温かさと目の前に屈み込んだ姿が上手く繋がらない。さらりと肩を流れた髪が腕に落ち掛かってからようやく舐めとる濡れた感触を覚えた。
「…っ…ん、霞、」
反射的に引こうとした手は固まったように動かない。かっと顔が火照ったのが分かった。
「…、」
ゆっくりと身をおこした霞と目が合う。
不思議な光彩を弾くそこには、先程までとは違い引き込まれるような深さがあった。
「痛く…ありません?」
「い…いや。」
夕日に濡れて光る口元を直視出来ずに視線を落とす。
「、平気だから、」
そっと押し返せば、そのまますいと離れた。鳴り響く鼓動に、何故だか疚しくて見返すことが出来ない。
「……でも、」
「…?」
切なげに揺れた声に恐々と視線を向ければ、そっと眉根を寄せた霞がこちらを見ていた。深くある光彩は揺らいで夕日を弾く。
「傷だらけ、です」
夕日に染まる辺りはただ赤く、落ちゆく日はそれでも暑かった。
なのに冷水を浴びせられたかのように、すっと心が冷える。
「……あ、」
どこか見通すように響く声に返す言葉を失う。案じるような哀れむような視線には確かに覚えがあった。
力無く笑んだ顔を思い出す。
何よりも大切な笑みを歪めてしまった傷は、正しく力無い自分自身の咎なのだ。
そのまま顔が強張っていってしまうのを止められない。しくりと湿気に響いた足が、刺すように痛んだ。
「……、…霞」
唐突に一人になりたくて、別れを告げようとのろのろと顔を上げる。只管に矮小さばかりの際立つ思考に吐き気さえしながら、一方で居た堪れないまでに逸る鼓動は早くこの色から逃げろと告げていた。
向き直って、眼前に見た笑みの無い相貌にはさっと幕を下ろしたかの様に、先程までとはあまりに違う冬の夜空を凝縮したかのような静けさがあって、思わず言葉を詰まらせた。
「…やっぱり、痛かったのですね」
「…っえ?」
静かに、霞は近づいてまた腕をのべる。
「傷だらけです。お体も、……ここ、も」
細い手に押さえられた胸は、鉛を飲んだ様に重く冷たい。
じっと見つめる瞳は、漆黒なのにどこまでも鮮やかに輝く。見透かされる感覚に、先程までとは違い、ゆっくりと鼓動が跳ねた。
「…、っ…なん、で」
「…お泣きになってますわ…」
泣いてなんかいない。それでも乾いた頬をそっと撫で上げる手は、母の手にも似て優しい。それでいてどこか冷たく響く感触はうかされる熱を鎮めるように涼やかだった。
「…お辛いのでしょう?」
暑い
冷たい
痛かった
撫でられた、傷
すとんと落ち込む言葉が、酷くますぐに響く。
「…そんなに、痛そうですのに」
辛い?
差し出した手に強さがなくて
辛かった
「……可哀想な、かた」
するりと白い手が離れた頬に、その冷たさを追う様に一筋の涙が零れ落ちる。
「……、」
泣いてしまう
優しいその手に
でもそれでは駄目なのだ
守ってやりたい
強くありたい
だから弱さなんていらない
泣いて縋ったりしてはいけない
でも
辛い
泣いてしまいたかった
何よりもその笑みに、縋りついてしまいたかった
何よりも大切なものだからこそ、壊れそうで怖くて。
案じるその身を抱き締めてやることさえ出来ずにいる。
だから追いすがった声を、置いてきてしまったのだけれども
「……っふ、…」
一度溢れた涙は堰を切ったように止まらない。じっと見つめる瞳の黒は心を鎮めてくれたけれど、じくじくと痛む胸は到底静まりそうになかった。
俯いて必死に涙を堪えようとすれば、伸びた手があやすように首の後ろを撫であげる。
「……お泣きになって…今なら誰も、見ていません」
「…か…すみ…」
押し出した声は掠れて落ちる。
薄闇に包まれた辺りには梢の擦れる音があるだけだ。
ただ次から次へと溢れてくる滴が、足下を叩いた。
「…、ぁ…」
しとどに濡れた頬を包み込むように冷たい手が伸べられる。思わず強く目を瞑って、その手に縋れば、顔を覆うその手に添える様に温かい感触があった。
「…っう」
閉じた眸から零れる滴を、しっとりと舐めとられていく。
とめどなく溢れた流れを柔らかに包まれるのが分かった。
「……、」
濡れた目を開けば、間近にあの黒がある。
潤む視界に目を細めれば、ゆっくりと近づく輝きがきらりと光った。
笑っていてほしい
笑いかけてほしい
でもそれだけで十分なんて何故思ったのだろう
包み込む全てが欲しい
包み込む全てになってやりたい
何より大切だ
大切だから
直義を
直義に
きっと
「…んっ、」
離れた唇が小さく音をたてる。
すっかり日が暮れきり、辺りはいつの間にか夜の様相だった。
「…霞、」
涙の乾いた目で見上げれば、霞はそれは綺麗に笑んだ。
夏の満天の空よりも零れ落ちるようなそれに目を奪われる。
渦巻くような焦熱。鎮められた感情はどこか穏やかで優しい。頑是無い子供のように泣きじゃくったというのに、目の前の相手を見返すのは不思議と恥ずかしくはなかった。
どこか見透かされる瞳はかの愛しき聡明さにも似て酷く心地いい。綺麗な笑顔は確かに澄み渡るようで、鳴らされた音は凛と聞こえる。ぎこちなく、それでも笑えたことに安堵してゆっくりと言葉を継いだ。
「…ありがとう」
「…はい」
しゃらしゃらと流れる声は、やはりどこまでもしずやかに響く。
晴れ渡る様に広がる心に、ゆっくりと沁みた。
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それは喜びなのか恐れなのか
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