がくがくと床についた手が震える。目前に伸ばされた手の、白さがまるで弾かれた火の粉の如くに目の奥に灼きついた。

「……たかうじ」
「…っ…あ」
「そんな顔をなさらないで?」

膝をついて、するりと女は腕を伸ばす。絡みとられた首筋にかかる重みを何処か遠く感じた。

「ふふ…可愛い方、…いいのよ?何だって、私が教えてあげる」

幾つものよぎる光景は信じがたいものばかりで
余りに鮮やかに覆し引き裂いて顕れた、笑みに
突き落とされたことさえ暫くは分からなかったのだ。

突き落とした
……裏、切る?
何を

自分を?
「霞」、を

そう
目の前にいるの、は
最早
あの、
ではなく

叩きつける雨音の中でもその声はどこまでも美しく響く。耳を塞ぐ手さえ縫い止められた自分には、…その調べを聞き続ける以外に、術は、無かった。
そうして

あたり
いちめんに
ひろがる

しらべ、は
…支え付いた腕を
いとも容易く折って
否応無しにたたき込まれる真実

「本当に、偶然、でしたのよ……最初は、ね」

そろりと指先で撫でられた首にぞくりと痺れが走る。

「まさか足利の御曹司があんなところにいらっしゃるなんて…ふふ、驚きましたのよ?」
「…い…つ…っ?」

鳴り響く頭を無理やり抑えつけて言葉を継ぐ。ともすれば崩おれそうになる体を必死で繋ぎとめた。

「……最初、と申し上げたでしょう?」
「、知って…?」
「ええ…そう、お顔を見た時から、私は貴方が足利高氏その方だと、存じ上げておりましたのよ?」
風になぶられ舞う布が肩に落ちた時
たしかにそこには止まって凍りついた時の欠片に
隠匿された瞬間が

「っ……?!」
「ちょっとしたお芝居でしたの、……私上手でしたでしょ?…ふふふ…!」

絡みとられた小指に結ばれた、赤い、紅い誓約に記されたのは
定められた獲物を囲い込んで逃がさぬ為の制約としての、

それは、成約

「!何で、な、」
「…私の御仕事ですもの、…ねぇ高氏?貴方は確かに僥倖に恵まれていましたけど……でもそれは私も同じことなのですわ…ふふ…」
「どういう、意味だ…、!」

首筋に絡みつく指がそっと踊る。重たい体を弾いて、反射的にその白い腕を掴みとった。

「………だってそうでしょう?まさかあそこでまた会えるなんて、思いませんでしたのよ?しかも……僅かな時の運さえ、手に入れて。これが僥倖でなくて何なのかしら」

掴まれた己の腕をちらりと見やって霞はついと口の端を釣り上げる。

「だから先程もお聞きしましたでしょ?…あの店がどんな処か、貴方ご存知?って」
「え……?」

「危なかった…ふふ、だってそう、もう少し早く貴方が彼処に来ていたらきっと…その時に全てを、知ってしまいましたわよ?くくっ…!」

振り払うようにして掴んだ掌から逃げた腕が、がつりと肩を叩いてくる。半ば殴りつけるような勢いのそれに、たまらずそのまま後ろに倒れた。

「っぐ…!!」

がしゃんと派手な音をたてて水を湛えた器が転がる。打ちつけた肩に鈍い痛みが走り体を捻ろうとすれば、覆い被さる体に畳に押さえつけられた。

「あ…ぅ…!」

締め上げるように腕を押さえつけられて、ひたすらに熱い体は、ただそれだけで自由を無くす。

「ふふ…高氏?」

そっと近づいた顔に思わず顔を背ければわらう気配がちらりと掠めたあとに、耳にぬるりとした感覚が走った。

「っひぁ…!」
「……ふ、」

差し入れられた濡れた音がそのままに耳を叩く。打たれたように震えが走り、無理やりに体を捻った。

「や…め…!」

縛り付ける重みが体にかかる。見上げた視界に弧を描いた紅い唇から、打ち出すように言葉が漏れ出でた。

「ふふふ、……あの店に来る方はね、買いに、来るのよ」

釣り上げた、そこから零れ落ちたのは
腹の中から腐らせる蜜の滴

「…そう、権を、握っていたいような方々がね…こぞっていらっしゃるのよ?…権を握るには何よりも多くの…耳が、情報が必要でしょう?ふふ…そんなものを欲しがる方が」
「…っう!」

うなじに伝う感覚に身を震わす。どくどくと鳴り響く音が際限なく高まった。

がたがたと戸を揺らすほどに轟々と吹き付けている雨の音すらがもう聞こえない。聞こえるのはこの叩き付ける鼓動と玲瓏たる響きだけで

「買いに、くるの…この女の躰と…睦言がわりの、煌びやかな権威を引っさげてね」

「ぁ……え…!…?」
「あははは…!っそんな目しちゃって…可愛い方!そうね、権威というなら、貴方だって足利の方ですもの。もしかしたらあの日出会わずとも結局いつかはお会いできたかもしれませんわね?…お客様として…、ふふ…」

するりと忍ばされた手が、襟口を割って肌蹴たそこを辿る。煽るように、なぶり尽くすかのように蠢かした指先が、嘲るように翻った。

「…ぁ、っ……!…か…霞っ…やめろ!!」

熱に浮かされた体はただそれだけでびくりと跳ねる。

「ふふふ…!」

侮蔑の色も露わに、くっきりとした嘲笑を浮かべ霞はそのまま胸元に顔を埋めた。

「そう……だから言ったの…、私はなぁんだって知ってるのよ、って」
「…つ!…ん…!」

ちろりと覗く赤は、いたぶる動きで舐めあげる。

「や…っ、やめ…!」

必死に身じろぎしても力の入らない体は小さく揺れるだけだ。伝っていく痺れに段々と残り僅かなその力さえもが消えて、横たえた体はぐったりと伏せる。投げ出された腕の戒めの解かれた筈の体を、それでも動かすことは出来なかった

「……はっ……あ、は…」


受け入れられない真実

ではあの打たれた痕、は
追われていた訳は

そしてなにより

"貴方の『殺した』お相手の御名前は"
…会えると思いましたの…

設けられた邂逅すらが、確かな意図を持って

「……っ…、」
「……たかうじ」
「…っ…あ」
「そんな顔をなさらないで…って言ったでしょう」

そっと体を起こした霞が、そのまま両手を伸ばしてがつりと顔を掴んでくる。

「……もっと毅然となさいな?そんな傷付いたような顔、してると…」
「く、う」
引きずり上げられるようにして無理やり合わされた視線。煌めくそれは変わらぬ毅さを以て、刺し貫く光を弾く


「……ずたずたに、してやりたくなる…」


「…っ!!」

突き抜ける様な衝撃に思わず呻く。首筋にかじりつく歯が、ぎりりと音を立てて膚を破って溢れるものを啜った。

「…っあ…あぁあああっ!」

どくどくと鳴る音に合わせて、流れ出る液体が酷く荒々しく吸われる。がんがんと鳴り響くものに、ただひたすらに動かぬ腕を前に突き出した。

「!」
「…ぁ、っ…はぁ、は…!」

相手を突き飛ばしたそのまま、必死に体を引きずり上げる。置かれた床机の低い台に縋りつくようにしてようやく半身を起こした。

溢れる傷口を袖で押さえつけてただ呆然と座り込んだ女を見つめる。
知らされた全ての事実

欺き
貶め
引き裂いた
感情に

残されたものなど何一つ

「……ふふ、」

そのままでうっすらと霞は笑みを浮かべる。

「…ほんに、いとしいひと…悪い人ね、こんなに私を煽って……ねえ、確かに私は貴方に偽りしか述べてないけれども…ふふ、あなたがいとしいひとなのは…本当のことだわ……だあって…こんなにも」

口の端を伝う流れを指先で伝いとって、そのまま唇に塗り付ける。まるで紅を引くかのようにくっきりとひかれた鮮やかな赤は毒々しいまでにその笑みに似合いだった。

「…ぞくぞく、するもの」
「……、!」

衣を蹴立てるようにして霞は立ち上がってくるりと一回身を翻す。そうしてからどこか陶酔しきった眼で、流れるそのままに言葉を紡ぎ出した。

「………ずっと……ずうっとつまらなかったのよ……単純で醜悪な駆け引きには疾うに飽いてたし……」

あぁ、と視線を落とした女の貌は酷く、歪んでいた。

「っ…」
「でも…そう『偶然』出会った貴方は…何も、何も知らなくて…初めてのことばかり……ふふこう見えても私…こんなに一人の方に執着したの初めてなのよ」

睦言のように紡がれる甘い言葉は、だが酷く乱暴に吐かれる。吐き捨てるかのような語気の強さは段々と強まるばかりで止まるところを知らなかった。

「…あなたの全てが欲しい…」

きしりと踏みしめる畳が高い音で鳴く。今更のように響く雨音が、しばらくその場を埋め尽くした。

「……ずっとつまらなかった…だから…今凄く嬉しいわ……ふふふふ!っ…あははははははははは…!あは…っはははは!」

ぎしりと軋む音がした。

どこか壊れたようにけたけたと笑い続けた霞は、不意にぴたりと笑いを収めてにたりと笑う

「……ねえ…貴方を下さらない?……いいでは、ありませんか…だって貴方は全てを持ってる、のですもの」

軋んで、砕け散る音が。

「……、な」

答える言葉を持たずにただ呆然と見返す。

雨が
体が
眼が
流れる感触が


五月蝿い熱い気持ち悪い

こわ、い


…そうして、長い長い時をその静寂の中過ごした。実際には大した時間ではないのに、凍り付いた流れの分だけ尚更重たく降り注ぐ。
そう、嵐の真中にいるかのような

不自然な静けさ

そして打ち破るのは突きつけるのは
いつだって唐突に

「……今日、私が何でここに来たのか、分かる…?」

泣きたい様な
全てをかなぐり捨ててしまいたい様な

それは衝動
逃避
…察知

手に残るのはほんの僅かな温もりと

償いを欲する幾ばくかの

「…貴方が下さった紅珊瑚…いえ、血珊瑚とも、言うのですけれどね?ご存知でしたでしょう?」

静かに室の中央に歩を戻した女は、置き去りにしていた荷にそろりと手を伸ばす。
鳴り響くのは、
半鐘?

あの夕暮れの日
別れを告げた音は
閉ざされる門の、合図

閉ざされる
全てのものに

さらけ出した自分の罪を


「…ね?」


視界に入るその
鮮やかな赤

金を彩る繊細な拵えの赤は


握る手があっ、て


落ちた布に凍り付くのは

自分の番




「……貴方の御子ですのよ…、可愛い、でしょう?」


軋んで、
砕け散る

お、と

が





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