軋み
崩れ落ち
そして全てを

消し去ったあとに残ったものは

ただ僅かな温もりと
償いを欲する幾ばくかの


確かな罪の証だけで



…きぃん、と高い音をたてて細い金が跳ねる。
投げ出された軌跡を曳くような細工の一つ一つが、絡み合い弧を描く。

「……っ、」

紡ぐべき言葉を探しかねて、必死に体を持ち上げる。ずるずると引きずるようにしか動けない体を叩き上げて立ち上がり、ゆっくりと歩を進めた。

「……子、が、」

静かに女の腕の中で眠る小さな体躯は、頼りなげにその身を包む衣に擦り寄る。

「……ふふ、そうよ?高氏…あなたの、御子ですのよ?だってほら、見て…?こんなにそっくりでしょう?」

閉じられた瞳は頑なに拒み閉ざされたものにも似て、その安らかさは酷く滑らかに刺し貫いた。鳴り響く痛みに狭まる視界をつなぎ止めて、よろける足を踏みしめる。それを嘲笑うように見やると、霞は無造作にその幼い体を突き出した。反射的に抱き止めれば、それは思っていたより重くしっかりと腕に収まる。ずしりと腕にかかる重みにただ呆然と稚い寝顔を見つめた。

何故

この腕に抱く幼い子
熱を持つその小さな体は
重く確かな命としてそこに在って

交わされた成約
隠された慾
絡み取り貶め手に弄び

裏切り
浮かされて

辿る指先
抱いた熱に
落とした涙は

犯した愚かしさ
侵した全てへの確かな罪の証


恐々と腕を緩めて、その体を抱き直す。少しむずがるようにしてから、また安らかに眠り出した無垢なその子の重みをただ静かに覚えた。

灼き付いた重みは枷のようにこの身に馴染む。まるで長年其処に在るものかの様なこの感覚を、きっと忘れることはないのだろう。

だってそうではないか。何も知らないこの子に、自分が最初に覚えるのが、汚れきった己の罪だなんてことが

許される訳が、無いのだから

「……ふっ、ぅ…」
「何を泣くの?高氏……」

さざめく笑いの波が、ざわりと膚を撫でる。堪えきれずに溢れたひとすじを掻くようにして掬いとって、そのまま口に含ませて笑った。
手にある命
夢幻の類であればどんなに良かったことだろう

…それでもこれがゆめならば残酷で
げんじつなら苛酷だ

目を逸らすことを許さない証として
そのものと、して

生まれた子の、熱が
伝わるこの腕など

切り落として切り捨てて
しまえたら、よかったのに

重たい音を立てて閉ざされたものは
この命続く限り二度と許されることのない、甘い煉獄への


一度零れた涙は、渦巻いた熱に押し出されるようにして次から次へと溢れ出た。ぼろぼろと散っていくそれが、幼い顔を濡らすことを恐れてそっと腕をのばせば、捧げるようにして差し出された白い手がそのままその体を奪った。

「……高氏、」

慣れた手つきで赤子の頬を撫でた霞が、ゆっくりと視線を巡らしてから囁くように声を押し出す。
…濡れた視界を、子を抱いた白い手が握りしめた輝きがきらりと、翻った。

「…あなたのすべてが、ほしいのよ」

浮かべられた笑みは
走った一条の輝きにかき消され


許されることのない罪
許されることのない命
それは自分であり
この子であり
ひとつになったそれは
断罪を求め贖罪たることを課された
握りしめられし

血の縁



「……っ……!!!」

ぐらりと揺れた視界に、いつの間にか畳に膝を付いた自分を知る。崩れた体を支える術も無く、肩から叩きつけた体は、脇腹から走る熱にびくりと震えた。

「……っ、ぁ、あ、ぐ…う……!」

庇う為に脇腹へ伸ばした手がぬるりとした感触を伝える。突き立った刃の煌めきの下から、溢れ出す赤がべっとりとその手を汚した

「…っう、…!」
「…ふふ?痛いの?高氏…抜いて、あげるから」

その刃を突き刺した美しい手が、ゆっくりとまた差し伸べられる。柄を掴んだその手を止めようと腕を動かすが、まるで自分の体では無いような重さで間に合うわけも無かった。

「……っぐ、あぁあぁ!あっ、う!」

音を立てて引き抜かれた懐刀が吹き出す飛沫を纏って舞う。弾けた灼熱は一瞬で痛みへと変わり、絞り出すような拍動に容易く体を地に縛り付けた。

「っ…ひゅ……」

吸った筈の喉が掠れた音をたてて鳴る。泥のように重たく伏せた体はどこもかしこもが鈍い痛みと熱を訴え、失う感覚に、流れ出るそれが熱を奪っていくのが分かった。

「ね高氏…この血が、この子にも流れてる…」
「……、」

朱に染まった白い手をそっと抱く子の頬へ這わせて、女はうっそりと笑う。安らかに眠る、この世の汚れを知らぬその頬に施された血化粧はそれでもどこまでも鮮やかだった。

「…や…め、」
「ふふ、何を?ねぇ高氏?この子は貴方の、子ですのよ?…そう、ならば」

そっと畳に置いた子を小さく撫でると、霞は自分の体の下に広がる小さな血溜まりに足を浸すように歩み寄った。

「ならば…貴方のすべてをいただく正統な権利を…この子は持っている」
「……、」
「……わたし、は貴方の全てが欲しい…でも」

白い足がぴちゃりと跳ね上げた赤い滴が畳に伏す顔に飛ぶ。己の体から出た筈のそれは酷く冷たかった。

「貴方は…『足利高氏』、……だから私の手には入らない」

さらりと絹糸のように流れる豊潤な髪を血溜まりに浸して、霞はゆっくりと顔を下げる。横たえた体はもうぴくりとも動くことはない。ただ睫だけを押し上げてせめてもの抵抗を示してみても、困ったような笑みは同情するそれ以上のものではなかった。

「ん……」
「…っふ…」

濡れた音が響き、奪われた吐息までもが貪欲に絡み取られる。暗くなる視界に傾けていた首を倒せば、重たく滴を吸った髪をかきあげて女は笑った。

「私には貴方を手に入れられない…でもこの子は違う、この子なら貴方の全てを手に出来る」

ぐいと鷲掴みにされた頭を引かれる。自分に出来るのはそれを見返すことだけだった。

「だから…愛しい人、私はこの子をいただくわ。いつの日か貴方を手に入れるこの子を、私は手に入れたのですもの…」

突き抜けるような輝きに、一条の光が宿る。それに視線を合わせようとすると女はついと目を伏せた。そっと幼い体を抱いてから、血濡れたそのまま女は金紗を羽織り、そっと立てかけてあった傘を手に取る。かすむ視界に映るのは最早その鮮やかな色だけで

いろ
彩、どんな

浮かべられた
鮮やかな縁の、色だけ

「……また会いましょうね、高氏」

最後まで響くそれは玲瓏たるそのままに


「貴方を愛してるわ…高、氏」

がしゃん、と高い音をたてて締め切られていた戸を打ち開く。途端に渦巻くようにして押し寄せた雨音は静かに立つその女の髪をなぶって吹いた。


血に
慾に
染まった美しい女は
無垢なその命を抱いて

「さようなら」

全てを覆い隠す雨の中に消えていった。



すべて
全てを手に入れる?
全てを失ってから
失わせて、から

自分をあの子を、血を
その呪いのような縁を

償えない罪が欲した罰を咎を断罪を
全てすべて

どろりと流れ出したものに奪われた熱、こめかみへ流れ落ちた熱いその涙を止める術を知らずに

罰を咎を断罪を
救い、を

飲み込む全てから抜け出す術を


助けて欲しい
助け、て
助けて

誰より愛しい名を
今呼んでしまいたい
たとえそれが罪を重ねても
救い上げる術を持つのは自分ではなくて
そうして恐れ怯えて益々弱くなる愚かな自分を

どうか



「……高氏?起きたの?今の音は…」

廊からかかる声は聞き慣れた母のもので。遮るように立つ屏風をただぼんやりと見つめた。それでも閉じてくる重みに耐えかねて自然と瞼が落ちる。

「…戸を開けては雨が入ってきてしまうじゃない…」

ずるりと垂れた髪紐が顔の横でぴちゃりと濡れた音をたてる。

「…高氏?」

近づく気配に小さく息を吐いた。

「?!っ高氏っ…?!高氏!どうして…、こんな…!早くっ薬師を呼びなさい!早くっ」

ばたばたと誰かの走り去る音が響いて、そっと目を開ける。ぼやけた視線は段々と青ざめた母の顔を結んだ。

「…うえ…」
「高氏…!!喋らないの…!」

大丈夫だと言おうとしても乾いた喉は張り付いてそれ以上の音を為さない。


だって死ぬわけがない
死ぬまで許されることのない罪を
負ったの、だから

熱い
冷たい
痛い

かなしい、


助けて



放り出された熱を
負った罪に耐えかねた弱さを

自分のすべてを
砕け散ったすべてを

「……、」
「高氏!たかう…、」

急速に狭まる視界は、まるで眠るように暗闇に閉ざされていった。


待ってると言ったのに
帰りを、待つと


閉ざされる視界に、もう一度だけ涙が零れた。




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