名を、呼んで …呼びたいと 強く強く、思ったのだったけれども 、いつ…? …直義、ただよし 直義 「ん……、」小さく身じろぎして直義はゆっくりと目を覚ます。目を擦りながら掛物から抜け出して少し体を起こしたその姿にほっとして息を吐けば、弾かれたように直義は顔をあげた。 「…!あ、にうえ!」 「……、」 直義、と声にならぬ名を紡ぐ。酷く呼んでやりたいのに何故声が出てくれないのだろうか。聞こえなかったであろうその返事に、もう一度押し出すようにして紡いだ声は、それでもやはり口先を震わせる程度にしか出なかった。 しかし直義はそれを見て零れそうな程大きく目を見開く。 ゆらりと揺れた瞳の透けるような色が、ちらりと陽を弾いた。 「……兄上…兄上、ええと…」 何故、だとか尋ねたいことは沢山あったのだけれど、どこか泣きだしそうな雰囲気を感じてじっと見つめ返す。覗きこんだそこはやはりほんの少しだけ濡れていて、思わず手を伸ばそうとするが無理な動きに痺れに似た痛みが走った。 「…!」 「……っ…兄上!あ、母上をお呼びしてきますから…」 ぱっと顔を伏せて立ち上がろうとする直義の衣の裾を反射的に掴む。 「…兄上……?」 「……ぃい、か…ら…」 伏せてしまった顔を上げさせることも出来ないとしても。 瞳によぎる痛みに思い出す光景があるから、今ひとりにさせたくない。 揺れる色を、見たのが自分だけだとするならば…自分のせいなのだとしたならばもうあんな笑い方をさせてしまいたくなどないのだ それに 乗せるようにして一言ずつ押し出す。静謐な室に零れた言葉は、その静けさが意を伝えてくれた。 「……ここに、いろ…」 …いて、欲しい 懇願にも似た視線を投げれば直義は半分泣いたような顔で固まってから、そろそろともう一度座り込んだ。 「…はい…」 掴んだ手をそっととって直義はぎゅっと握り込む。伝わる暖かさは覚えがある感触だった。切なさにも似た気分にゆっくりと笑う。泣いてしまいたくなる時にも少し似ていた。 そこにいて欲しい 名を呼びたい そして …え? ちらりとよぎるものがさっと影をはいていく。 深く息を吸えば、ぎしぎしと体中が痛んだ。 …何故? 「…兄上、あの…お水飲みますか?」 かけられた声に頷きかえせば、どこか手慣れた様子で水を含ませた綿布を口元にあてがう。冷たいそれを吸いながら見上げれば、投げかけた視線に直義は少し戸惑うようにしてから小さく笑った。視線に含ませた問いを、直義ならばすぐに理解しただろう。答えを求めて首を傾げれば直義はゆっくりと囁いた。 「……兄上は、五日間お眠りになられてたんです」 五日、? 動かない体、手慣れた動作 こんなところで、何故だと 何故、なぜ…だって? 「……、ぁ?」 「……兄上?」 思い出せ 違う、忘れていた訳では ただぼんやりとこの黎明の中で 自分は 伝う暖かさ いつだって変わらずにある、変わらずにいてくれたその そうどんな時、だって 手を 握って その暖かさに浸った時自分は? あの時、あの、日もこの自分の手を握り 濡れた、その手を 身を浸される夢を見ていた 濡れた手は握られて 朱に染まったその 手は 朱、その流れ出た赤。 突き刺した(突き刺された) 飛沫を避けて(受けて) 身を浸すのは 地に伏せたのは かち合う目は 「……う、…」 「あ兄上…っ、傷が痛みますか?お薬が確かここに…」 それは 手を濡らしたそれは誰の だれの そんなことは決まっている 紛うことなき 自分自身の罪の、証だ …思い、出せ 「……っ!!!」 熱い冷たい痛いかなしい この体動かない訳なんて 「ぁ…あっ!!」 「兄上?!駄目です!!」 軋む体を無理やりに床から引き起こす。忽ち走る激痛にそのまま起こした体を折った。 「兄上!まだ動いては…」 突っ伏した視界にちかちかと瞬く光。限りなく見開いた目は痛みを覚えるほどだったが、かき消すように鳴り響く鼓動が全てを包み込んだ。 そうだ 何故、何があったかなんて 釣り上げられた口の端に 抱いた幼い 輝いた刃が 流し示した罪 「……!」 握られた手を引いて離す。驚いて目を見張る直義から後ずさるように体を引いた。 「……め、だ…」 「兄上?」 そうだ、何故こうして伏せていた?あの子が、あの女が。 罰を咎を断罪を求めて そこにいる 名を呼んで 何を求めようとした? これ以上の罪を重ねても 「……だ、めだ!」 そろそろと差し伸べられようとした手がびくりと震える。 きつく両腕を抱いて中から溢れ出しそうになる何かを力づくで押さえつけた。 犯した罪、晒されたそれ 倒れ伏した自分の濡れた手 閉ざされる世界に救いを求めて得られた温もり その救いは、 …よぎった、瞳の痛みで 「…ぅ…あぁ、あ、」 「兄上っ!」 伸びてくる手に弾けるように身を引く。軋んだものを気にかける余裕などはなかった。 「だめだだめだ…!直義っ……触るな!!」 「?!」 唖然としてこちらに手を掲げたまま固まる直義を見返す。 少し青い顔にまたしてもよぎるものがあって、それは酷く鋭く刺し貫いた。 「触ったら……駄目だ……直義…直義…直義…」 お前の罪を知れと 流された代償を知れと 償い切れぬ罪に晒されたのは自分の筈だったのに よぎる光景 痛みを孕んだ瞳 笑わせたのは誰の所為? 身勝手に それはあたかもあの為された成約の如く 縛り付けて救いなどと わらう光景に突きつけられたものに覚えた恐怖に 期待した年月 変わっていないだと? 変わってしまったなどと、 元から言えた筈もなかったのだ。 変わらぬ愚かさが傷つける相手は変わる事が出来ずに 変わってしまった事が戻れる筈のない場所を指し示す恐怖にただ怯えて 鏡の中の己が罪を見てわらう。 なんて、 …無垢なその子に為された血化粧 差し伸べた手、美しい女の、己の手に濡れた赤は どろりと濁る汚泥を思わせる重みで確かに流れ 握りしめた白い手 いつも いつだって 縋りついたのは 「…あ…ぅ…く…」 「あ…に…うえ…?兄上…」 躊躇いに頼りなく揺れる瞳がじっとこちらを見る。 抱いた幼子 目の前の大切な、大切な相手に 何をして 「……お前が…汚れるっ……!」 「……、!?」 助けてほしい 苦しい、から 余りに晒されたものが多すぎて 酷すぎて 知りたくなかった 知らなかったのだ 無知の罪の代償が この身勝手な救いだとしたら 罰を背負って痛みを抱えて 押しつけてしまうなんてことを 許せる訳がない 大切だと 守りたいと その為に厭うことなく、 流したものが 何より大切なものに降り注ぐなんてことが 笑ってくれる わらわせてしまう 手を握って その白い手を汚してしまうのは 自分しか、いないのだとしたら? 手を出すものに怯えるのはとんだ筋違いだというものだ。 鏡の中の己が罪を見てわらう。 なんて、愚かしく醜い 「……」目に入ったのは枕元に据えられた茶器。この期に及んでまでの自分の愚かさにほとほと呆れながら、伸ばした手に迷いは無かった。 next 混乱錯乱狂気、に 彩られるのは きっと こころからの歓待 |