ひたひたと身を浸した熱
もしくは伏せた幾人かの体躯

流れ落ちるものに自分は確かに恐怖、を覚えたのだと思ったのだけれど
室の真中に立って見渡した視界は赤に染まっていて、伸びた手に身を引いたのは単なる反射だった。

身を浸した夢を見た
赤く黒く
愚かしい

だって自分は知っていた
なんどもなんども、繰り返し見たのだから

夢の終わりを知っていた
夢の始まりを知っていた

飛沫が浸すものはいつだって伸ばされた、
そうしてかち合う濁った瞳は、
良く知る、愚かしさにまみれた

―…鏡の中の己が罪を見てわらう

浸食される恐怖に飛び起きた
犯す罪に怯えて

そうだ自分は知っていた

とっくに、知っていたんだ




振り下ろした拳の下で茶器が割れる。叩きつけた勢いでそのまま盆の上に散った破片が盛大に音をたてた。握っていた手をそのまま開けばちゃりり、と細い音が響く。思いの外原型を保った器をちらりと見やってから、大きな破片の一つを右手に取った。握り締めたそれは容易く手のひらを喰い破るが痛みは感じない。当たり前だ、先程から何も感じない。身を起こした時には体中が悲鳴をあげるようであったのに、どろりと濁るようにどこもかしこも感覚が鈍っていた。

「……あにうえ、あに…うえっ!何を…何をなさってるんですか…!止めて下さい…また、怪我をしてっ…」

直義は完璧に青ざめている。潤んだ瞳が弾く光は澄んでいて、ただ必死にこちらを見ていた。

ぞくりとした感覚にまた少し後退る。
駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ

もうこれ以上

…なんと、言った
ああそうだ…

側にいてほしい、と
言ったではないか

「……く、ぁ」

駄目だ
分かってる筈だ
ずっとずっと知ってた

どんな罪を犯しても
何人殺そうが
いくら血を流そうが

その罪は全て赦される
救われる、贖罪を


ならば自分はそれを
……何に、押し付けた…―?!


駆け巡った灼熱とは裏腹に、腕を上げさせた頭は酷く冷静だった。

「…?!…あ…あにう…」


…おかしい、そんなに手加減したつもりは、無かったのに。力が足りないのかもしれない。ずっと伏せていて萎えた手だ。次はもう少し、強く掻けばいいのかもしれないそうだ、そうしよう

……今度は上手くいったと、思う。それなのに
がりがりと音を立てて引き裂いた左の手首には、真直ぐな線が刻まれただけだった

…おかしい

「兄上っ!!!」

がつりと右腕が掴まれる感触がする。はっと見ればそこには直義がぎゅうとしがみついている。

「……!!離せ直義っ…!!触るなって…言っただろう…!」

半ば喚き散らすようにして言葉を吐く。しかし直義は首を激しく横に振って、更に強くしがみついた。

「やめて…やめて下さいっ!!兄上…何でこんな…!」
「離せ…離せっ……あ、あ……!」

少しだけ強く腕をひくが、しがみつかれたそこはびくともしない。鼓動がまた大きく鳴り響いた。

「…め…駄目だっ……お前が…お前が…」

がんがんと五月蝿いものが頭を揺らす。

「何故です…!こんなことしたら……死んでしまいます!」

五月蝿い
音が頭を叩いて

焦る
駄目だこれ以上

切れない
今のままでは
切らなくては

だって

「…死ねば、いい…!」
「!?っ…!」
「死ねばいい、死んでもいい…!それで止まるならそれでいい」

汚れる
汚れる
汚すのは自分しかいないのだ

愚かしい醜い
罪を

終わらせてしまえばいいのだ

それに相応しいのがあの汚泥だというのなら、そうなのだろう
別に死にたいとは思わない
ただそれしかないなら別にそれでも構いはしないのだから

誰が為の命だ
誰が為に繋ぐ

それを知りながら、知るならば、迷いなど無いはずだ


切り捨てた体躯
危害を加えるなら殺してやる
据えられた清涼な室
守りきること以外の意義など無い

傷付けるものは許さない
誰でも


だれ、でも


かんたんなことだ


「あにうえっっ!!」
「…触るな」

直義はびくりと身を震わせる。

「…離せ」

半ば言い捨てるようにして言い放つ。

「…嫌です」
「……離せ、と言ってるんだ」

「嫌です」
「離せ!」
「離しません!」
「…!!嫌だ…嫌だ嫌だ…!離せ直義っ!汚れると…言ってるだろう…!!」

「何故です!分かりません!兄上がそんな筈ないでしょう!」

頭が痛い
体中が痛い?
痛くない筈だ
どこも、別に

赤、無垢な命
罪、救いの手
瞳、傷付けた

十分だ

「直義…ただよし…駄目だって……頼む、から……離れ…」

耐えられない
耐えられないのだ

幾人殺そうが
幾ら血を流そうが
赦される罪が

縋りついた弱さが
傷付けた瞳が
正視に耐えぬ全て全て

耐えられない
何故?決まってる

傷付けると分かっていて、
それでもその手をどうしようもなく願ってしまうこの愚かしさ
汚れてしまう真白な手に縋りついてしまいたくなる醜さが

己が命、誰の為に何の為にあるのかと

他ならぬ自分こそがその大罪犯しながら
偽善だ身勝手だ独り善がりではないか
知るべきだ知るべきだ知るべきだ!

傷付けるものは許さない
消してしまえ消えてしまえ
その汚泥ごと全て全て

…お前の笑顔が、曇らぬように

望みはただそれだけなのだから


「……兄上、…なんで…そんなことを仰るんですか…、兄上が…私を?汚す…なんて有り得…ない」

いっそ泣いてしまいたかった

「……直義…」

馬鹿なことを、している。
それでもぎゅうと掴まれた腕を、振り払ってしまえない
誰より愛しい名を呼んで

…呼んで
そして求めてしまう、前に

吐き捨て、た



「子がいる」
「…っえ……?」
「…子が、いる…まだ赤子だけれど…俺の、子だ」

呆然とこちらを見た直義の顔には複雑な色が入り乱れた。

「……この腕に抱いた」


そっと左手をあげればつられたように直義は視線を上げる。鉤裂きになった左手はみすぼらしくて矢鱈とこの愚行には似合いだった。

「…俺の愚かさの代償で生まれた、子だ。分かるか…?俺は、……俺はっ…!」

この身引き裂いてもまだ足りぬ。悔恨というには激しすぎる感情が駆け巡り、ぐらりと視界を歪める。

「子だ、この腕の中確かに生きていた!こんな罪は許されない…!許されてはいけない!分かるか直義!俺は、俺の愚かしさの代償に命を一つ払ったのだ!!」
「、…」

愕然とした様子の直義とぼんやりと視線をあわせる。

「許せない…こんな…愚か、な……汚……離せ、直義…俺は…俺は」

罪の大きさに耐えられぬ
汚れた自分に耐えられぬ


何よりもそんな自分の弱さが、自分の全てを叩き潰してしまうことに耐えられない

直義

これ以上お前が汚れてしまえば、俺は死に優る苦痛など容易く手に入れるだろう
偽善だ身勝手だ独り善がりだ
それでも耐えられない
どうか、どうかお前だけは

「……離してくれ…直義…」



「嫌です」



ぴたりと時が止まったかのような感覚に襲われる。遅れたように酷く静かに響く声が耳朶に転がり込む。その響きが消え去る前に右腕はしっかりとした痛みを覚えた。

「……、!?!」
「絶対に…嫌です」

きっ、と見上げる瞳には強い力があった。見据える中には怒りにも似た熱があって思わずじっと見返す。直義のこんな顔など見たことがない。

「…何故だ…直義…分かるだろう?!」
「分かりません!…兄上が…どんな罪を犯しても…なんで死んでしまわねばならない訳なんかありましょう」
「そうしなければ!許されない!」
「何故です!直義が言いましたか?わたしが兄上を許さないとでも?」
「馬鹿を言うな!許してはいけない…!そんな」

痛みに鈍い頭を振る。

弱い自分を知っていた
…そしてけして強くない瞳も知っていた
弱い自分の傍らにあって、決して強くなんかないのにただ必死に、その手を伸ばしているのだ

軋んでしまう弱さを垣間見る。それでも全てを受け入れてやれる程自分も強くなんかない。だからせめて、そんな顔をさせてしまいたくないからと、せめてこの手の届くところにいればどうにかしてやれると

思って縛って

許す、?
自分はまた直義を贖罪にしようとしている。
愚かしい、卑怯だ

許しを与える直義に、自分は何を負わせようと

「…嫌だ直義…お前がっ」
「兄上は…なんで…わからないんですか」

ぎょっとして視線をあげれば、今度こそはっきりとした怒色を浮かべて直義はこちらを見た。

「兄上を許すことが、私の苦しみとなるなどと本当に思いますか?!…汚れる、なんて有り得ないのに!いいえ…兄上が言うように本当に汚れてしまうとしても、そんなこと…構いやしないのに!」

「……!!?」

「兄上は馬鹿です!……兄上が…死んで私が苦しくないとでも思うのですか!兄上は、兄上は直義を大事にしてくれるのに!そんな兄上を、死なせて?」
「……た…だ…よし…」

直義はきつく腕を掴んで、ぶんぶんと首を振った。尾を引くように透明な滴がはらはらと舞ってじくじくとした掌を濡らす。いつの間にか溢れ出たその流れが、きらきらと光を弾いて落ちた。

熱い
冷たい


でも、いつだってこの温もりは優しさ以外のものを齎したことなどなかった

「…兄上が……たとえどんな人でも…、どんなに悪い人だったとしても…」


……何度だって確かめる
大切な大切な
たったひとり

直義

そうだたったひとりの、かけがえのない
俺の、

きらきらと輝くものに、
無理やり抑えつけて封じ込めた筈のものが溢れてしまう

俺の、たったひとり

…けて

助けて
たす、けて
助けて

苦しい
身勝手な、自分

だって怖い
傷付けて汚して
それでもきっと自分は

苦しい
苦しい

だってお前が、いない、から
だってお前を離せ、ないから

苦しい、んだ

「……私は、兄上がいてくれなくては、嫌です……」

呼んで、しまう

だって怖い
傷付けて汚しきってそれでもきっと自分は
その腕を振り払えない

苦しい
目の前のどこまでも澄んだ涙に

言ってしまうことが

「…兄上は…、直義の兄上…でしょう?」

何の為に生きて
この体を埋める全て、全て

全てを失って
失わせても、

離せやしない

分かっているだろう?晒された罪はあくまでも鏡の中の己が罪なのだと。

だとしたら
浮かべられた狂気を手に取ったのも間違いなく自分、なのだ

助けて
苦しい

から

「私は兄上が…どんなことをしても…それでも兄上が…すきです、から」

そっと直義が右腕を離す。
―…ちゃりん、と場違いに高い音をたてて握りしめていた破片が畳に跳ねた。


苦しい
熱い
痛い

でもそんな痛みだけが
今はとてつもなく

溢れ出たものに

直義

それでもいいとお前は言うのか
ならば罪を汚れを厭わぬお前を、その澄み切った涙を、誰が汚せようか

直義
直義

直義

たったひとりの
生きる為の、理由を

分かっている

もう
分かっているんだ

苦しい
熱い
痛い
でもそんな痛みだけが
今はとてつもなく

愛おしかった



「……ただ…よしっ…!!」
「…あにうえ…」


引き寄せた体を力の限り抱き締める。だらりと流れる赤は矢張りその体を汚したけれど、そんなことに構っていられなかった。

がんがんと鳴り響く頭に、忽ち堰を切ったように涙が溢れ出る。ぎゅうと抱き締めた体を、それでももっと近くに感じたくて更に力をいれた。

「直義……直義っ…」

離してなるものか
もう離せないのだ

こんな身勝手な感情に怯えて、拒絶される前にひたすらに隠した。
近いけれども存在した僅かな距離に、無駄に傷付けた。
そうして怯えて、それでもすんでのところで、踏み出さないでいた場所を

たった今自分は

苦しい
痛い
熱い
そして

泣いてしまうほどに、幸せだった



もう遅い
もう戻れない

その距離を踏み出した
この腕で抱き締める
そうして求める
たった、一言

「……そばに、いてくれ…」

大切だ
この命、全てなどと比するべくもなく
だから自分はとっくに知っていた

直義の為に死ねるというならば
きっとその為にしか生きられない

一度抱き締めてしまえばもう

離れない
離さない

それは狂気に似た激しい焦熱

狂おしい慾に
それでも伸ばされた手は、どこまでも優しくて
「……兄上…なら兄上も離れないで、下さい……もう、直義から離れてしまっては嫌です」
「……ああ、…」

もう遅い

たったひとりの
ひとり、だけ

決まっている
決めた
そう、決めたのだから

その為の傷ならば、今度こそ厭いはしない
この腕の中から離しはしない

幾人殺そうとも
幾ら血を流そうと
例えその中で、痛みすら失っても

この腕離さない為ならば

なんでも、する

幾人でも幾らでも
己でも
…お前でも

許さない
この腕を離すことは

「直義…いいのか…?」

抱いた熱を離すのは嫌だったが、顔が見たかった。
少しだけ腕をゆるめてそっとその中の直義に向き直る。

「そばに…いてくれるか…」
「…はい兄上」

ついと零すものがありながら、それでも直義は微笑む。
切なさにまた腕に力をこめて、その中に閉じこめた。

翻った煌めき
鏡写しになった己が罪
証たることで生まれた命

その全てを自分は裏切る

たったひとり
ひとり、だけ

もう決まっていた、決めてしまったから
他の全てを、自分は裏切るのだろう。

それがどこまでも罪深くとも、どうしようもない。
抱き締めるこの腕は二本しかなく、この腕はただひとりを離せはしない。

まさに思いを裂いた罪が
こんな痛みを引き起こしたのだから

もう、間違えない
誤りだとしても正そうとは思わない

ただひとりを
ひとりだけを

自分は選んだのだから

「直義…」

全てを背負え
傷が痛むならそれを甘受しろ

汚れを厭わぬ直義を、全力でそこから守ってみせる

自分の汚れを、直義は許すと言った
自分の汚れは、直義を侵すことがないだろう

ならばそう、どこまでも汚れきろうとその笑顔をこの手で守る


甘えるな
もう決めた

切り捨てろ裏切れ
痛みを愛おしみ笑うことが出来るのだから


美しい女、己の姿
抱いた子、罪無き命

雨音に渦巻いた声、玲瓏たるその響きを思い出す

さよなら、と別離を告げたあの声を

―…さよなら、だ


「直義…」
「兄上…?」
「……済まなかった…」
「……はい」

力の限りに抱き締める。痛い程のそれに直義はそれでも、まわした手を離さないでいてくれた。








「……直義…」

ぼんやりと投げ出した左腕の巾を見て、名を呼ぶ。頭上からやんわりと返る声はどこまでも穏やかだった。

「…五日間…ろくに寝てないんだろう…?お前も…寝た方がいいんじゃないか」
「いいえ…兄上、大丈夫ですから」
「……そうか?」
「はい、」

頭を預けたそこからそっと仰ぎ見る。膝の上の自分と目を合わせて、直義は小さく笑った。

「ちゃんと寝なきゃだめですよ、兄上が眠れるまでこうしててあげますから」

そっと伸びた手が静かに垂れた髪を梳いて流す。気持ちよさに目を細めて身じろぎすればまた軽やかに直義は笑った。

「…まだ朝なのに」
「だめです、怪我人なんですから大人しくしてて下さい」
不満気にはしてみたものの、無理やり引き動かした体は確かにがたがただった。

「ね兄上……ちゃんとここに、いますから」
「…なら…いい…」

ようやく笑う。
伝わる熱に、暖かさに。

眠りに閉ざされた視界は、もう悲しいものではなかった。




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