身を離して、足をしっかりと踏みしめて立つ。
些か涼しくなった風がゆっくりと吹き抜けた。少し困ったように笑いかけるその顔はどこまでも優しくて、温かい何かがそっと降り積もるのが分かった。

二つだけ鳴る半鐘の音が町の夕刻を告げていて、その余韻が消える前に霞は金紗を手に掛けて一つだけ礼をとった。

「あ、」
「…もし、」

上げかけた声を遮るように霞が小さく首を振る。

「…もし、もう一度私と貴方様がお会いできましたら、その時にお名前お教え下さいね。」
「もう一度?」

別に今、言ってしまってもいい。でもふわりと笑う顔が余りに柔らかくてそうしてやりたいと思った。

「えぇ…約束、ですよ」

そっと掬われた小指を絡ませて、こつりと額を寄せる。

「楽しみに、してますから」
「霞…」
「…では」

さっと翻した細い身はあっという間に夜闇に紛れる。忽ち一人取り残されたが、不思議と心は軽かった。名の如くに霞の様に涼やかに笑んで去っていった。ただ絡ませた小指に、赤いその紙縒だけを残して。


帰ろうと思う。
顔が見たかった。
今なら少し甘えてしまえる気がする。

登る半月が冴え冴えと輝いた。




「…兄上!」
「高氏」
「直義…母上…あの、」

家の側まで帰ってきた途端に屋敷の者に捕まる。引きずられる様にして門を潜れば、縁側から駆け下りてきたのは直義と母だった。駆け寄ったその場で立ち尽くす姿に、迷いながらも声をかける。

「…あ、母上…あのごめんなさい…」

夕餉に遅れただけで怒られたのだから、こんな時間まで帰らなかった怒りはどれ程のものかと伺うように視線を上げる。だが眉根を寄せた母はいきなり腕を開くと自分を引き寄せて強く抱き込んだ。

「は、母上」
「…この母を心配なぞさせて…本当に…」

気丈な母の声が小さく揺れていて、見慣れた痛みにちらつく。
自分だけでは、ない
同じ痛みを背負わせていたのに。

「母上…、ありがとう御座います。」

きょとんと驚いた様にこちらを見つめた母は、急に目を逸らす。

「…ほんに悪い御子です。お父上にお叱り頂きますからね!」

頑なになっていた心に沁みて広がるのが分かる
追い詰めて傷つけていたのは自分自身なのかもしれない
「…」
裾を引く手に目を向ければ直義がじっと俯いていた。
「直義、」
愛しく浮かんでくる笑顔には今度こそ一点の曇りもない。
軽くその俯いた頭を叩いてやれば、そろりと顔を上げた。

「ただいま直義」
「…お、かえりなさい…兄上」

困ったように首を傾げるその頭をぐちゃぐちゃとかき混ぜる。きょとんとした顔に、吹き出せば、漸く綻ぶように笑った。

「何をなさるんです」
「はは悪い悪い…」

その笑顔に張っていた力が抜ける。切ない甘さに頭を直義の衣に埋めるように寄りかかって、小さく息を吐く。不意に泣きたいような衝動に駆られて直義の肩に顔を伏せれば、直義がじっとこちらを見たのがわかった。

追い詰めて傷つけた自分自身。
それでも、それだけは変わることのなかったもの

自分のすべきことを知っている
自分の帰る場所を知っている

待っててくれると、知っていた

「…兄上」
「直義…、」
「…直義は、兄上の為に頑張りますから。兄上も、頑張って下さいね」

綺麗に浮かべられた笑顔はどこまでも愛しい。
きっと直義だって変わりはしない。
どんなに耐えられないことも側にあるなら平気だと忘れていた

「…これ、」

差し出された小さな紙片を開けば、そこに整った手で綴られたのは幾らかの祈りの言葉。真新しい墨の香が小さく鼻を擽った。

「兄上をお守り下さいますように。」
「…直義、」

手のひらのかさりと乾いた感触が、吹き抜けるように心に渡る


象られた笑み

大切だ
大切だから
それだけで強くあれる

弱さを弱さと呼べるだけの優しさに包まれて
守るだけの力を手に入れることが出来る。

なによりたいせつ、だから

「さぁさ、湯殿も夕餉も疾うに支度できてましてよ。早く家にお入んなさい」
「はい、行くか直義」
「はい!」

差し出された手を引いて駈ける。握りしめた手はしっとりと馴染む。いつの間にか夜気に冷たく吹く風を、温かくたゆたう湯気がほんのりと和らげた。







「兄上のばんです」
「ん」

蜩の声が、強すぎる日の光に白々と透ける障子から沁みる。庭先に撒いたばかりの水が、色濃い木々の葉を濡らして光った。

目の前の碁盤をじっと睨みつける。握る黒と置いてある白には今のところ大差がない。

「ん―…」
「待ったは無しですよ」

ちらりと盤の向こう側を見やれば直義がにこにこと笑ってこちらを見ている。ふと手を思いついて黒石を握りなおした。

「ん、じゃあ次は直義の番だ」

石を打って笑い返してやれば、途端に真剣な顔で直義は盤を見つめた

「ちょっと、まって下さいね」
「あぁ」

一生懸命考える風情に思わず頬が緩む。


昼下がり、折角の晴れ日に直義を連れて屋敷を抜け出そうとも思ったが何しろ葉月も近く、滅法に日差しが強い。実際朝出仕するのすら大変だった。それが直義となれば尚更だろうし、正直自分も辛い。仕方なしに自分の室で、引っ張り出してきた碁盤を囲んでいた。手慣れぬ対局はお互いやたらと冗長だったが、沈黙が苦になる筈もない。穏やかに流れる時にうっすらと目を眇める。
ふと手元に目をやれば、小指に巻かれた紙縒の赤が目を刺した。

結局、一度も会えていない。この穏やかな時はきっとあの日、慰めてくれた彼女のお陰なのだから、もう一度会いたい。それにあの煌めく瞳をもう一度見たいとちらりと思った。
近づいてきたそれを急に思い出して、軽く赤面する。頭を振って熱を覚ませば、驚いたように直義が顔を上げた。

「な、何でもない。」
「?…あ、はい。兄上のばんです」

直義は嬉しそうに石を置いて、顔をあげる。なかなかいい手だった。

「うー…」
「若」

不意に廊から声が響く。直義と顔を見合わせてから立ち上がった。室の中央には自分の肩ほどの高さの屏風が室を横断するように置いてある。縁側の方にいる自分の姿は立ち上がらねば廊から見えないだろう。

「何だ」
「上杉様がお越しですが」
「叔父上?」

珍しいこともあったものだ。十まではそれこそ頻繁に叔父は来ていたものだが、最近はそんなこともない。元服した半年ほど前に京をおとなったのにしても久々の邂逅であった。

「奥方様と、お待ちになっていらっしゃいます」
「分かったすぐ行くから」

振り向いて、ぺたりと座る直義の頭を軽く叩く。
「すぐ戻るから、その時まで次の一手は待っててくれ」
「……待ったは無しですよ?」
「はは、分かってる」
「はい」

笑んだ直義に頷きかえして、屏風を抜けて室を出る。少し先で待っていた近習が先に立った。





「若殿、お久しぶりです」

母の室にいた叔父は、常のように何処か捉えどころの無い笑みを浮かべて軽く頭を下げる。それにひとつ礼をとってから、叔父の前に座った。

「叔父上、どうかなさったんですか?また宮方のご用事ですか?」

儀礼ごとも何もないこの時期にわざわざ来たのだから、或いは朝廷の用事かもしれない。前にも何度かそのようなことはあった。

「いいえ若殿、朝廷の方もこの時期は暇で御座いますからね」

見透かされた笑みも慣れたものだが、横の母の顔はどこか暗い。何かあったのだろうかと視線を忍ばせても叔父の態度には某かの不審さ一つなかった。

「……では?」
「…若殿、此度憲房めは若殿に会いに来たのです」
「お、…私に?」
首を傾げれば黙っていた母が、勿体つけるようにゆるりと息を吐いた。それを見た叔父が、一つ頷くと軽く手を上げる。

「…高氏、兄様にちゃんとお話するのよ」
「え?」

どこかさばさばとした動作で母は立ち上がる。呆気にとられている間にさっさと室を出て行ってしまった。

「…叔父上?」
「若殿、前に話したこと、覚えておいででしょうか」

急に声の調子を落とした叔父に反射的に姿勢を正す。

「……私の、役目のことでしょうか」
「如何にも。」

気遣うような視線に唐突に理解する。どこか冷たさを滲ませたその態度は京に行ったあの日とどことなく似ている。

「……叔父上、高氏はまだ、答えを知りませんが」

首から下げた守り袋を縫ってくれたのは母だった
中に入れた半紙の感触はいつだって近くある

「今はやれる事を、やろうと思っています」
「…ご立派です。」

にっこりと笑んだ叔父は、また穏やかに声を戻す。

「…母上から、聞いたんですか?」

そう思えば些か情けない気分にもなって自然視線が落ちる。上目に見上げれば、いっそ楽しげに叔父は首を横に振った。

「いいえ、この叔父に分からぬことなどありませぬからな」
「えぇ、」
「いやいや、…若殿は幕府をどう思うかと私に尋ねられましたな。その若殿が出仕をお始めになれば 思うところもおありでしょう、とな」
「……叔父上、でも」

それは更に立場の無い気がする。

幕府に対する疑念
朝廷に対する猜疑


そんなものを、持っていたのは確かだったが、自分が悩んでいたのはもっと己だけの矮小な事柄だ。

気まずさに頭を垂れれば、軽く笑って叔父はまた首を振った。

「いいのですよ若殿。お悩みになるのもお役目だと申し上げたでしょう。今はただ若殿がご自分のすることを分かってらっしゃるならそれでよろしいのですよ」
「…はい」

「ただ…」

叔父は急に眉を顰めると、言葉を選ぶように視線をさ迷わせた。

「…執権どのは些か世病みであらせるとか。」
「…そちらまで、聞こえてきますか?」
「えぇ…まあ、長崎氏の専横も…よく。」

それはかなり危ない事態ではある。近年来、常に朝廷を上回って力を持ってきた幕府の弱体化が宮側に伝わっている。何がしかの因子を確かに産もう。…高時の世病みは身に沁みて知るところである。無意識に巾を巻いた足に視線を落とせば、叔父が顰めた眉根に皺を刻んだ。

「若殿、お困りなら何でも仰いませ。余り、無理などなさいますな」

苦笑して聞き慣れた台詞に礼を言う。
最近はもうそんなに辛いわけではない。

だが叔父は躊躇うようにしたあと、更に言い募った。

「……お聞きしますが、最近何か執権どのに言われたことなどありませぬか」
「え…?」

無理な要求はいつものこととはいえ殊更何かあった覚えは無い。首を振れば、叔父は一つ息を吐いて乗り出していた姿勢を戻した。

「それならよろしゅうございます。いえ…大したことでは無いのです。どうかお気になさらず」
「はい…」

叔父がわざわざ京から来たのは或いはこれを尋ねる為だったのではないかとふと思う。それ程に先ほどの語気は強く、だが話を切り上げてしまった叔父にそれを問う術も無い。気になって声を上げるが見つめる眸にたちまち言葉に詰まった。

「叔父上……あの明日にはお帰りになるんですか」

結局そんな聞き方しか出来ない。それでも日を変えさえすればもしかしたら聞くことが出来るかもしれないと思う。叔父はまた綺麗に笑うと、暫くは…といっても十日を越せはしないだろうが―…こちらで過ごすつもりだと言った。



小さく引っかかりのようなものを覚えながらも、形になる前に靄のように消えていく。

何気に巡らせていた指先が小指に触れて、細い紙縒を少し押した。






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履き違えたものに