喧噪に浮かれる市を進む。相も変わらず被った布は暑苦しいが、それが苦にならない程いろいろな店を冷やかして歩くのは楽しい。
叔父が暫く泊まっていくというので、廚は大わらわでもてなしの支度をしていた。邪魔にならぬよう室に戻れば、運悪く直義は母に呼び出されたという。何やら詩経に関する講義らしく、時間が掛かりそうだと直義は詫びた。気にするなとは言ったものの家で一人無聊を慰めるのもつまらない。強く差す光にたじろぎはしたものの思い切って外に出た。遠駈けに行くのは辛くても市くらいなら大丈夫だろう。それに微かな期待もあった。
…―もしかしたらまた、会えるかもしれない
「そこの若君、見てって下さいよ!」
快活な声に呼び止められて振り向くと、小間物屋の主人が愛想笑いを浮かべてこちらを見ていた。苦笑しながら近付けば、大げさな手振りで品を示される。
「…へえ」
「良い品揃えてますよ!どうですこの根付、黒瑪瑙に青砂をあしらえてあるんです」
小刀から装飾品まで幅広く揃えた品々は確かに精巧な造りのものばかりだった。思わず手に取って見てみると、日を照り返す金銀細工が鈍く光る。感心して見回していたら、一際鮮やかな彩が目に入った。―…金の簪に挿された、目を引くその色。
「…それ?」
「あぁ、お目が高い。これは血珊瑚です。大変珍しくて…お値打ち物ですよ」
深紅の色合いのそれは確かに見たことがない。珍しいその赤はだが細く繊細な造りの簪に誂えたように似合いだった。
「どうです、どこぞの姫君に」
笑って断ろうとしてふと手が止まる。…似合いそうだと思う。きっと赤は映えるだろう。それ程に美しい漆黒だった。
「ん…」
何時会えるかも分からない、だけど
その色は括られた紙縒の赤にも似ていた
包んで貰ったそれを懐に入れて小走りに市を進む。何処か擽ったいような感覚に、自然足取りが軽くなった。昔、余り市など出掛けたことも無かった頃にも似ている。連れ出してくれた叔父の見せる全てが新しく、手に握った袋は何処か面映ゆかった。…直義以外に、何かを買ってやりたいと思ったのは初めてだ。少し緊張にも似た気分に、顔に朱が差すのが自分でも分かった。
市を進むにつれ、喧噪は次第に落ち着いていく。緩やかに減る人の流れに一心地ついた。些か疎らにもなった通りには、幾つかの館が軒を連ねる。行く手に視線を飛ばすと、数人が軒先で食事をしている茶屋が目に入った。
何とは無しにそちらに向かって歩を進める。朱塗りの朱が褪せてくすんだ色になった柱のその店は少し西国風の変わった造りをしていた。物珍しさに歩を緩めて眺めれば、散らした視界にふと鮮やかな何かが横切る。
「…―!」
茶屋の横手へと入っていく影を追って駆け出す。怪訝そうな目で茶屋客の男には睨めつけられたが、それに構っている暇などは無い。
細い路地を三間程進むと開けた場所に出た。周りを木壁に囲まれたそこは、細い無花果の木の傍らに井戸が一つあるだけの小さな空間だった。
煩く音をたてる鼓動を抑えて、息を吸う。
井戸端にすんなりと立つ後ろ姿。
「―…霞?」
押し出した声に弾かれたように影は此方を向く。青く透ける衣を翻して、振り仰ぐその鮮やかな軌跡は確かに見覚えあるそれだった。
「貴方様は…」
零れ落ちそうなまでに瞳を見開いた霞が、ゆっくりと力を抜く。急に声を掛けたことを少し後悔しながら、そっと近づいた。何処か夢心地の様に現実感の欠ける空間の中、進めた足は重さを感じない。
「…また、お会い出来ましたね」
ふわりと柔らかに浮かべられた笑みにも、頷きかえしてやることしかできない。会いたいと思っていた筈なのに、余りに突然訪れた邂逅に感情が追い付いていないのだ。
「あ…」
井戸の少し手前、あと一歩を踏み出していいのかが何故か躊躇われ、そこで立ち止まる。目に映る色彩は鮮やかなのに、それでいて逆に平坦だ。
「…」
焦りに似た感情がじわりと湧く。先程後ろ姿を見たときに、何か浮かんだものがあった気がするのに意識を逸らした瞬間に掻き消えてしまった。言葉を探して視線を巡らしていれば、再度合わされた視線がゆるりと流れた。
「…かすみ、と」
「え?」
立ち止まってしまった自分の方へ霞が小さく一歩踏み出す。歩幅の違うそれは距離を埋めるには足りないが、見つめる瞳は矢張り黒く輝いて、しっとりと細められたそこには瑞々しい喜色があった。
「…霞、とお呼び下さいましたね。…覚えていて下さって…嬉しゅうございます」
「…それは、」
忘れる訳もない。思わず残りの一歩を進めれば、そのままそっと腕を絡めとられた。
「…これも…捨ててしまわれても、宜しかったのに」
小指に巻き付く紙縒を撫でて霞は困ったように微笑んだ。
目を刺す紙縒の赤
翻る衣の色は青く
腕には暖かな感触
じわりと力が抜けるのに伴って、目の前の情景が鮮明になる。一歩遅れるようにして聞こえる蝉の声。全てに無音であった世界はそっと開けてしゃらしゃらと金細工の擦れあうあの声が響く
綺麗な笑顔。目の前のそれをもう一度見つめなおせば、塞がれたように詰まっていた声が自然と喉を突いて出た。
「…また会えて、嬉しい」
「…わたくしもです…貴方様がそうお思いになって下さるのならば尚更」
絡めた左腕のまま、暫し寄り添って立つ。右手を伸ばしてそっと肩を抱けば、綺麗に微笑んだ。
「何故でしょうね」
「え?」
「あんなにも不確かな約定でしたのに…こうしてまたお会いできると信じておりました」
「…俺も、…いや少し、違うのかもしれない」
絡ませた小指に、ゆっくりと笑む
「…会いたかった」
「…此方にいらして」
嬉しそうに引かれた手に従って、井戸端に座り込む。
夏の日差しは酷く鋭い。
だが、この小さな場所に照るそれは幾らか散らされて穏やかだ。無花果の葉が青々と繁り作る木陰も涼やかに、ただ穏やかに流れる時を形作った。
「名を」
「…お教え、下さいますの?」
「約束、したから」
少し言葉を交わしてから、切り出したものの畏まると何故だか無性に恥ずかしい気もする。それでも擽るような響きの声がさらりと流れればすんなりと次を継げた。
「…高氏。足利の、高氏という。」
「…高氏さま?」
「高氏、と」
「…高氏」
「そう」
「高氏」
聞こえる音が知らぬ名のように澄んで響き、軽く赤面する。見つめる瞳が色を帯びて、含ませた笑みに彩る。取り繕うように出した声は少し掠れていた。
「…あ、これ」
懐から取り出した包みをいきなり手渡す。小首を傾げて見た霞に一つ頷いて差し出せば、ほそりとした手がそっとそれを取った。
「まぁ、紅珊瑚ですね」
「あぁ…似合うと、思って」
「…わたくしに?」
驚いたように見つめ返す顔に頷いてやる。
「きっと赤は映える」
「…これを、わたくしに…」
簪を胸に抱くようにして握りしめた霞は、酷く嬉しそうに笑った。
「…ありがとうございます…」
浮かべられた笑みにどくりと一つ心の臓が鳴る。どこか慣れた切なさに、泣きたいような可笑しな感覚に襲われた。
「…貸して」
「…高氏」
金の細い拵えを片手にとって、漆黒に光る髪を撫でた。手の内から零れ落ちるそれを撫で付けて纏める。さらりと手に残る流れにまで切なくなりながら、そっと簪を挿してやった。
「…あぁ、やっぱり似合う」
「…本当に?」
「綺麗だ」
まるでその赤はここに飾られる為に設えたかのようだ。自然綻ぶ口元に、霞がそろりと手を伸ばした。
「…うれしい…」
見上げる黒はいつだって潤み輝く。映りこむ自分の姿すらが見えそうないろに、ゆっくりと引き寄せられるように近付いた。
「……、」
思い出したのは確かな色
傷を癒したそれは今は寧ろ映りこんでいた筈の己の色に似ている <
井戸端に、立った後ろ姿
酷く嬉しそうに浮かべられたそこには矢張り己に似た安堵があった
「っは……」
「…んぅ…」
滲ませた弱さは優しさ故かもしれない。委ねてくれたそれに、安堵とも痛みとも似たものを噛み締める。合わせていたその距離で、ゆっくりと囁いて尋ねれば華奢な体が腕の中から伏せた目を上げて、しゃらりと簪の鳴る音がした。
「…霞、何か、あったのか?」
「……隠せませんのね、」
少し自嘲のようなものを滲ませてそっと眉を落とす。引く手に促されるままに、もう一度唇を合わせてからそっと顔を離した。
「…いいえ、ただわたくしの器量が及ばないのが悪いのです。御主人のお気にそえぬのは…仕方のない事」
打たれた痕が、あった。
茶屋の脇からこんな閉ざされた場所へと彼女は、逃げたのだ。
駆け出した自分を、撫でたのは霞で
霞はきっとたったひとりここで立っているつもりだったのだろう
「…親の無いわたくしを目に掛けて下さるご恩に、報いるべき身でございます」
呟くように紡がれた言葉は、ぶつかるようにして散らばる。堅いそれは少し哀しい。
「…霞、」
「……そうでしょう?」
ゆるりと首を振って笑ってやる。
「痛いなら痛いといえばいい…その方が、嬉しい」
そう教えてくれたのだって今は伏せられたこの瞳だ
大切なものを、傷つけて悲しむのは自分だけでないのだろうから
「…でも、もう大丈夫です」
ふと象られた笑みは酷く柔らかい。
少し不似合いに悪戯めいた色を含ませて声をたてて笑った。
「…紅珊瑚の、意味を?」
「いや…知らない」
「ふふ…それも、天の配剤なのでしょうか」
凭れかかる体を抱き止めて見返す。
「紅珊瑚には魔除けの効があると言いますわ。…高氏が、くださったのですもの。きっとわたくしを御守り 下さるでしょう?」
撫でる手を取ってそっと腕を引く。
抱きしめるだけの強さは必要ない。
「…そうか…」
「だから心配なさらないで、」
「…」
たおやかな体は腕におさまるほど
それでも伝わる熱は確かにここにある
流した手で髪を梳いてやれば、肩を揺らして霞は此方を見つめた
「…優しいのね」
「…霞が、してくれただろう?」
「ふふ…、」
戯れに伸ばされた手が髪を括っていた組み紐を解く。ばさりと肩に落ちかかる感触に見やれば含み笑うようにして霞はその垂れた髪を撫ぜた。
「そんなこと言われては甘えてしまいます」
「…しまえば、いい」
「…狡い…」
ぐいと垂れた髪を引かれ、半ば噛みつく様に呼吸を奪われる。深く交わされた吐息に、背筋にぞくりと甘い痺れが走った。
「ぅ、ん」
「……た、かうじ…」
掌をそろりと細い指が伝う。擽るように戯れる指先が何故か常とは違う痺れを走らせた。
「っ、」
「…ね、」
甘い声にそっと見つめ返す。掴む手は流れて首筋を伝った。
「…!」
不意に足音が聞こえ、弾かれたようにお互い体を起こす。霞が慌てたように腕を引くと井戸の後ろに隠すように押し入れた。
「…霞?いるのかえ」
「は、はい小母様、今戻りますわ」
「そうかい、日が暮れる前に支度するから早くな」
路地の入り口から掛けられた声はまた遠ざかって消える。思わず座りこんだまま安堵の息を吐くと、立ち尽くした霞が切なげな目でこちらを見ていた
「ごめんなさい…行かなくては」
「…気に、することはない」
そっと髪を撫でようとする腕を取って引き寄せ逆に口付ける。
「…また、会いに行くから」
「はい、…はい…お待ちして…いいんですね」
「約束、する」
綺麗に笑んだ霞は、そして首筋にもう一度だけ顔を埋めた。走る痛みの後に、そっと垂れた髪を背に流すように掻きあげる。
「…また、」
一つ礼をした霞は小走りに細いそこを駈けていく。
その後ろ姿を見てからぐしゃりと前髪をかきあげる。夏の日差しの中で火照る体は中々冷めてくれそうもなかった。
今更に流れた汗が垂れた髪を張り付かせる。どこか冷たい感触に怖いまでの熱を感じた。
付けられた痣に走る甘い痛み
それだけが残る全てだった。
next
口実が、欲しかったのだと
|