思えば叔父はいつも言っていた
怖いものはいつだって、目には見えぬのだと
「行って参ります叔父上」
出仕の為早朝に家をでる自分を、だが叔父は完璧に支度を整えて送り出してくれた。普段は宮仕えをする叔父なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、その手際の良さは矢張りかなわないと思う。
「行ってらっしゃいませ若殿、お気をつけて」
馬に乗ると、控えていた師直と随身が付き従う。
「きっと午過ぎには帰ります」
「はい、では私めは清子と茶でも立ててお待ちしております故、なるべく早くお帰りになられませ。…あまり遅いと在らぬことまで母君に申し上げますよ」
「叔父上にはかないません、」
じとりと睨めつければ声をたてて叔父は笑った。無理をするなと言ってくれているのだと分かっている。待っててくれるならそれでいい。
「では、」
「はい」
馬を出して日の射してきた道を行く。
…思い返せばそれが長い一日の始めだったのだのだが、そのときにはそんな事を思える筈もなかった
黴臭いような湿った空気がひたりと足にまとわりつく。たとい夏の暑気の中でもここはいつでも冷たかった。高時の館の書庫には膨大な記録が納められている。税や兵のことからなにやらまで、その量は尋常ではない。埃の積もった書を叩きながら、積み上げた書簡の山々を恨めしく見つめた
「高氏さま…これはどちらに置きましょう?」
「あ、あぁ悪い今目を通したいから此処に置いてくれ」
あと一月二月もすれば農繁期はすぐに来る。それまでに整備しておかねばならない幾つかの事項を調べようと思ったのだが如何せん量が多すぎた。師直が手伝ってくれてはいるものの、今一つ目に見えた進展は無い。
「…」
高資はまた賦役を重くする気らしい。不作が続く末の仕方のない施策なのかもしれぬが、奢侈の過ぎる暮らしぶりを見れば違う目的だって透けて見えようというものだ。帰ってから叔父に聞いてみてもいいかもしれない。西国の方はどうなのだろうか
考えこんでいれば、不意にちらついた軌跡に思わず眉をしかめる。
「…ん、」
「虫ですか」
目の前を飛ぶ羽虫を叩き落とす。夏場ゆえ仕方ないとはいえ、視界に入るのは煩わしいことこの上ない。
「…あ高氏さま、かぶれましたか?」
「え?」
「先程からお掻きになられて、赤くなってますよ」
其処、と指さされた箇所を見やれば確かに赤らんでいる。無意識に掻いていたらしい。
「本当だ、」
「塗り薬をお使いになりますか?万一膿みますと大変ですし」
「いや…そこまで酷くない」
そうですか、と首を傾げる師直にうんと一つ頷いてやれば、ふと目に入る。また一つ赤くなった場所に、そろりと手を伸ばせば痒みというよりは疼くような感覚が、小さくあった。
「…、っ」
「どうか、しましたか?」
「な、何でも無い…」
思わず上げてしまった声に、不審そうに覗き込む視線を避けてくるりと後ろを向く。暑さに開けた襟刳りをぐいと引き寄せて整え直す。
首筋に付いた、痕。赤くなっているのは分かっていた。
昨日、結局霞を見送ったあと暫く井戸端に座りこんだまま漫然と時を送った。甘い痺れにも似た感覚はしばらくの間抜ける事が無く、一向に冷めやらぬ体を持て余したのだ。辿った首筋に付けられた痕だって怖い程に鮮明だった。
霞に、あの美しい瞳に、抱いた感情を多分自分は知っている。それでも井戸端でぐるぐると考えていたのは余り良いことではなかった気がする。どこか初めての道を無闇矢鱈と歩く時に似ていた。迷わないといけないところを飛ばしてしまったのだと思う。
よく、分からない。
持て余す感情は不快なものではないのに、阻害されるのは大事なことばかりだ。いつだって夢のような時が過ぎて、気がつくと自分には逃れ得ぬ様々なことがあった。何が、と言うわけではないから恐らくただかき乱される自分自身がやるせないのだとは薄々分かった。後ろめたさにも似たものはしっかりとあって、それが何に所以するのか考えるのは少し厭だった。
浮かぶ笑顔を、首を振って打ち消す。今はそんな事を考えていていい時ではない。手に取った資料を半ば睨みつけるように捲った。
「…高氏」
否応なしに跳ねる体に、驚く暇もない。思索に耽っていたから、という訳すらも越えて聞こえる筈の無い声に驚き振り向く。
「た、高時様?」
書庫や執務室に高時自身が姿を現したことは今までに無かった。慌てて頭を下げると顔を上げるよう言われる。見れば高時は一人で来たらしくいつも控えさせている随身すらいなかった。人払いを、したのかもしれない。
「……師直、出ててくれ」
「…は、」
気遣う様に忍ばされた視線に小さく笑ってやれば、深々と一礼して足早に室を出ていった。
静まりかえった書庫は矢張り冷たく湿る。何やら面白気に辺りに視線を巡らせる高時は、しばらく何も言おうとする様子がない。
―…執権どのは些か世病みであらせるとか…―
ふと浮かんだ叔父の言葉がうそ寒く響く。
高時は童の様であった。つまらぬことで屈託なく笑い、物を知らぬゆえの癇癪にも似た怒り方をするのが常だった。執権の高位にありながら、することといったら道楽だけ。
世を病んでいる。その見慣れた姿は確かにそうとしか言い様が無い。だが、何故だろう。今目の前の姿を見つめて感じるのはもっと深い恐怖にも似たものだ。
ぞくりと背筋が凍る。こんなにも静かに何かを見据える姿など見たことがあっただろうか。
「のぅ…高氏?何をしていたのだ」
「…僭越ながら、秋の備えを確かめたく…」
「ふうん?何か分かったことでもあるか?」
びくついたように体が跳ねる。高時が政に関して自分に何かを言及するのは間違いなく初めてだった。
「税のことか」
「…、」
「…高資は税を増やせと煩うて構わんが……お主は厭だと見える」
「恐れながら…」
今目の前に立つのはあの常なる北条高時ではない。どこか澱んだ水底にも似た圧がゆるりと水位を増すのが分かった。
「…無闇にそんな事をしては民の不満は鬱積しましょう…御身を揺るがす大事となるやもしれません」
起伏の無い笑い声が棘のように肌を刺す。
「そうか、では余は何をすればいいのかな?税を減らせと?そう申せばいいのかな…高資に」
「…っ、」
眼光は研磨した刃に似て鈍い。高時に実権が無いのは最早周知だと言ってもいい。ただ高時自身が享楽に耽りそれを気に掛ける様が無かっただけのことだ。
「…高氏、お主はさぞ不満だろうな。」
無造作に積まれた書を手に取って高時は捲る。
「お主が例えばこれを調べあげて余に進言してもそれはそれだけのことよ。その様なこと、ここ一年でお主だって良く知っておろうに」
高資の傀儡たる高時。十三の年でその座についた高時は五年の月日が経った今、何を思うのだろうか
「いやしくも足利を背負って立つお主にはさぞ不満だろう」
「……そんな、ことは…」
逸らした視線を戻すことができない。増す水位は最早息苦しさまで覚えさせる。高時は何を言っているのだろうか。高時自身の鬱屈を吐いている訳ではない。かといって見透かしたことを言っているつもりも無さそうだった。ただ淡々と述べるそこには正に澱み停滞した温度だけがあって訳のわからない重圧は増すばかりだ。
「意味が無いと知っているのだろう、何故だ」
「……高時様」
「無駄だと、思わぬのか」
言葉を失ってただ高時を見返せば、興に入ったように見つめる眼はひたりと据わっていた。
「…税を増やせば、不満が溜まると言ったな」
「は…」
「それがどうなる?」
歪んだ笑みを刻んで高時はゆっくりと近づく。思わず後退りかけて付いた手に力を入れた。急に払われた腕に、舞うように書が散らばる。床を叩く音が静まり切らぬうちに、くぐもった声がゆるりと押し出された。
「どうせ永くはないのなら、この高時が世に終わらせてしまえばいい」
明晰なまでにはっきりと吐くのは呪いに似た言葉。傀儡たる己に課した役目のような呪い。
自分が目の前の男を酷く怖がっているのだと漸くはっきりと悟る。そんなことは今までになかったことだ。誰かを恐れたり、することなど。
だが高時は間違いなく自分の理解の及ばぬ世界に立っていて、埋めがたい断絶じみたものは自分を拒絶するには十分だった。
「っ、高と…」
「高氏」
この名が何を意味するのか知っている。
授かった一文字に込められたのは追従か、忠誠か。
高時は父を知っているだろうが、聞くようなことではなかった
「…お主はそれでもいい。だが余には出来はしない。それだけのことよ、」
「…」
怠惰に堕ちることが、高時の明晰さだなんて信じえよう筈もない。理解が及ばぬことがこんなに恐ろしいとは思わなかった。
―…本当に?
何か白く弾けた思考にびくりと身が震える。
本当に高時を恐れるのはそんな訳なのか
…本当に、自分はそういった事が恐ろしいのだと知らなかっただろうか?
回る思考はいつまでも確固たる何かをはじき出してはくれない。
最早反射のように、見つめる瞳に問い返した。
「……高時様、それならば何故、何故私にそんなことを仰るのですか…」
世病みが高時自身の意図だと言うのならば尚更、ここで自分にさらけ出すような真似をする必要性は無い。だが高時はそれこそ可笑しげに笑うと一つ首を振った。
「ふむ…お主は若いな」
言われれば確かに今の問いは愚かしい愚直さにまみれている。止めてしまったのは自分の為とはいえ高時が笑うのも無理はなかった。
「…それでもそのようなお主だから言ってやる気になったのだろうて」
「…高時様?」
「先に言おう」
静かに見た姿は見つめすぎて逆にはっきりとした影を結ばない。
それでも確かにそこにある姿を見据えれば、鈍い声が訥々と響いた。
「余はたかだか飾られる存在でしかない。だからこそ一度だけなら全てを見過ごしてやることも出来よう」
一度だけ、なら
…何を?
「…余は何も見ない、聞かない。何もなかったことに今日はなるだろう。…それだけが余がお主にかけてやれる情の限りだ」
継がれる言葉がじわじわと滲みて、忽ち背を凍らせる。高時は自分に情をかけた。自分を何故かしら評価して、こんな、さらけ出すような真似までして情をかけたのだ。
示唆されるもの
なかったことにされるもの
それがかけられる情なのだとすれば
「た…高時様、」
「高資は…預かり知らぬのやもしれぬが…止める訳も無い。だがお主が怖いのかもしれぬ、今日はまだ動くまい」
全てが一つに繋がる。同時にある事に気付いて急激に血の気が下がり、視界が狭くなる。五月蝿いくらいに鳴り響く音に強く手を握り締めた。
「…もう、今日はこれで下がるがいい。」
憐れみにも似た感情をちらつかせて高時は室を出ていく。恐らく二度とは見ることはないであろうしゃんと伸びきった背は、確かに達観の高さを滲ませていた。その後ろ姿が視界から消えたのと同時に、ぎこちなく固まる体を必死で叩き起こす。
「…なぉ…師直!」
書庫を飛び出し廊で見慣れた姿を求めて名を叫べば、驚いた顔で慌てて駆け寄ってきた。
「高氏さま!?どうかなさったのですか」
「馬を引け、今すぐ館に帰る」
「…は?!」
「早く!」
叱りつけるようにすれば、さっと身を翻して師直は駈けていく。それを追いながら、ただ必死に頭を回した。
…自分の元へ、高時はきっと何か違う事を言わされに来たのだ。それが高時の秤にかけられた結果、それは何がしかの自分の評価の方が重かった。それは高時の言う通り、高時の出来ないことをやっていたからかもしれないがただその訳は知りようもない。
だから高時は情をかけると言った。
そして秤に乗せられたもう片方
…―強要された、言葉は
―…なかったことになるだろう…―
それが、自分が起こすだろう行為を黙認することが、情けなのだとすれば
鞭をいれた馬さえがどうしても何時もより遅く感じられる。逸る気持ちを抑える術など持たない。
握り締めた手に感覚などは無かった。
next
それは些細な
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