朝家を出たときには照りつける夏の日差しが眩しいとすら思った筈だったのに、午を迎えたばかりの空はどんよりと暗い。夕立と言うには早すぎる暗雲の訪れに、益々気が急いた。

「た、高氏さま!一体どうしたのです」

馬を飛ばしながら、師直は馬首を寄せてこちらを伺う。強張る顔は自分の表情を見てのことだと知っても、笑いかけてやることは出来なかった。

「…俺の、考えすぎだといい」
「何が…あったのですか。執権どのから、何かご沙汰でも?」

馬の足で弾いた砂利がかちんと高い音をたてる。じとりと暑く湿った空気は、馬を駆っていてさえ重たくまとわりついた。

「…師直。狙われて、いるかもしれない」
「…!」
「高時様はきっと長崎高資が何かしら動いたのをお教え下さったんだと思う……だからそれに如何様に対処しようと、罪は問わぬと」
「長崎が…!」

忌々しげに顔を歪めた師直は、差した刀を確かめるように視線を飛ばした。後ろを走る随身も酷く落ち着かな気に視線を巡らせる。高資自身は今日は動かないだろうと高時は言った。しかし高資は足利を潰したがっていたし、何より幕府を握っていた。後ろ盾としての力ならばその存在それだけで十分だ。

そして何より、気付いてしまった、こと。
火種には心当たりが、あった。
自責の念と灼けるような怒りが身を焦がす。

彼らは足利高氏を知っていた
だからこそ落ちた布に油断したのだと分かっていたのに

「この前、北条の者と諍いを起こした」
「…!高氏さま…」
「……、もし、そうなら……」

浮かんだ考えにざっと血の気がひく。思い当たって愕然とした時の、視界がの全てがなくなるかの様な喪失感。強く頭を振って、ただ道の先を見据える。

躊躇うように師直が声をあげ何かを言おうとしたが、前の横道から飛び出した見覚えある姿に阻まれた。

「若君!」
「お前…」

確かに家の者だ。馬を止めれば、その前に飛び降りるように馬からおりた男が崩れ落ちる様に膝をついた。

「ここでお会いできるとは…!今、そちらへ伺おうとしていたのです」
「言え、何用だ」

焦りが滲むのを止められない。火急の用という言葉に痛い程に知らされながらも、どこか信じたくない気持ちを抑えきれなかった。そしてそれでも、そんな幻想は続く言葉に簡単に打ち破られる。

「…どうか一刻も早いご帰還を…!…ほ北条の方が…お越しになられて…」

いきなり訪ねてきた客は不遜すぎた十人足らず。北条の名に怯む家人を脅して半ば無理やり館に上がりこんだという。

「……!」
「高氏さま…、」
「っ、急げ、」

手綱を引き絞って強く馬の腹を蹴る。どくどくと鳴り響くのが最早どこだか分かりはせず、薄暗い視界は本当に天気だけの故か。


駄目だ
許せるものか

自分の全てが
在るというのに




「若!」
「高氏様!」

騒然とする館に馬を乗り付けて駆け込む。縋る家人に視線を飛ばせば、迎える筈の幾つかの姿が無い。

「北条は!」
「…お、奥方様の室に…上杉様もいらっしゃいまする…」
「…!」

廊を駈けて、ますぐに母の室を目指す。後ろをついた師直が周りに何事かを指示していたのは聞こえていたが、聞き取るにはきれた己の息の音が五月蝿かった。伸びる廊は平らな筈なのに、山道を行くその道程よりも遙かに辛い。身を裂かれるに似た怒りは、意識の無いままに体を突き動かしていく。

許せない
立ち入って許される場所など疾うに超えた
許さない
ならば?




室の前に立っていた姿には見覚えがある。


「…!」
「…これは、漸くのお帰りでございますか」
「貴様、どけ!」

あの時の四人の中にあった顔だ。男は皮肉げに笑い、それでも一歩も動こうとしない。

「まさか足利の曹司であらせるとは。先日は誠に失礼を致しましたな」
「…何をしに来た」

「…どうやらお立場をお分かりになっていないようだ」

急激に反転した視界についていくことができずに、反射的に目を瞑る。腕に鈍い痛みが走ってからようやく捻り上げられたのだと知った。

「高氏さま!貴様何を…!」

師直が刀を抜き放ち構える。男は笑ったまま足で勢いよく室の障子を開けた。

「若殿!」
「、叔父上」

室にいたのはやはり母と叔父、そしてそれを囲むように五人の男達が腰を下ろしていた。すっくと立ち上がった叔父がこちらへ歩み寄ってくる。

「何をする、いくら北条といえど左様な無礼は度が過ぎよう!!」
「おい、離せ」

叔父の声を追う様に室の中の男から指示が飛ぶ。

「っ、」
「高氏さま!」
「若殿!」

半ば突き飛ばされる様に室に入れられて畳に倒れこむ。駆け寄った師直の手を借りて身を起こせば、その後ろで障子が音をたてて閉じられた。

静まり返った室に、男達は何も口を開かない。それを一瞥してからそっと奥へ進んだ。

「母上」
「……高氏、」

恐怖ではなく怒りで身を震わした母の手を取ってそっと立たせる。そのまま無言で手をひいて廊の方へ連れて行く。前に立つ男を睨みつければ、今度は何も言わずに身をずらした。

「…すいません母上」
「高氏」

薄く障子を開けて母を廊に出す。師直が呼んでいたのだろう、控えていた下女に目配せしてから障子を閉ざした。

「…改めてまして、足利の若君」

向き直れば男が下卑た笑みを浮かべて口火を切る。

「…神妙にお身柄差し出されますよう」

師直の鳴らした刀の音が酷く響いた。



高時は何を言いたかったのだろう。身の不遇を託ちでもしたかったのか

高時の父貞時が何をしたのか父に聞いたことがある。
独裁者として恣に権威を揮った彼の息子として生まれた高時。…永く続いた北条の世。極めたかのように見える権威、その老廃物としての価値を与えられた高時。その高時の身の内の葛藤など自分には預かり知らぬことだ。だが高時は見ないと言った。それが高時の術なのだとするならば、自分はそれを頼みにできる筈だ。

第一許せはしない
童じみた行為で、しまい込んだのはなにより大切だからなのだと
踏み入れることを許す訳には



「…ひいてはそれは北条家、執権どのを軽んずる行為に他ならぬ。沙汰を下す故早々に出頭されたし」

滔々とまくし立てるそれを聞き流して、ぐいと拳を握り締める。愚劣な意趣返しのようなものに付き合いきれはしない。

「……お聞きするが、それは誰の御意志か」
「…、」
「恐れ多くも他ならぬ北条執権高時様にお仕えする身、主の許しなくば軽々しく従える筈もない」
「…ほう?」

言葉を探る様に男は言い澱む。まさか実権が無いのだろうとはっきり言うわけにもいくまい。高資の名をちらつかせるまではしても、それが権を握る名なのだと言えはしない。

「では足利の若君は下知に従わぬとの仰せか」

いい加減限界だ。
怒りで眩む視界を必死に繋ぎとめた。

「…そのような下知、相手も白々しい。いくら長崎氏とはいえ逆恨みじみた下らぬ事情を白昼に曝されれば 庇いきれぬのでは?」
「…っの餓鬼が」

それは半ば脅迫だ。内々に処理する力を高資は確かに持てど、一度晒した罪を握り潰すのは勝手が違う。出来はするだろうが、別段利用価値も無くなった相手など、手間をかけるぐらいなら高資は軽々と切り捨てるだろう。此度のことは高資自身の企みではない。転がり込んだことが高資の有利に働く可能性があったから少し後押ししただけだ。それが上手くいかなかったからといって高資は何の傷を負うことも無い。これ程強く出れるのは高資の後ろ盾故なのだから、そこを脅かされて奴らが平気でいられる訳もなかった。

「…お引き取り願おう。高時様直々の下知あるまで、参内を控えさせて頂く」
「…巫山戯るな!」

一瞬にして膨れ上がった怒気が弾ける。室にいた全てが張られた糸の切れる音を聞いた。

そして
斜めに走る視界に、翻ったのは影。

後ろから踊り出た姿を、目の端に捉えた


「……っ、!」
「…若殿が下がれと仰せになられました。だから此の話は此処まで、ですな」

とんとん、と閉じた扇で叔父は男の手首を叩く。

「…もう宜しいでしょう」

正に抜こうとした形のまま固まった男に、突きつけていた扇を静かに引くと、叔父は纏う空気を変える。

「…余り怒らせないで頂きたい。生憎その様な愚劣さには慣れておらぬ」
「!…っく!」

振り向いた男が見たのは師直。切っ先を後ろにいた男の首筋に押し当てて、浮かべる表情は至極平坦だった。凍り付いた室の空気を破ったのは、しかし男自身だった。


「……何としてでも従って頂く」

くつくつと掠れた笑い声を上げる男を見ると、上目に伺うように巡らされた卑屈な視線とかち合う。

その瞬間、雷のように閃いたものに総毛立った。

「……!!」


―…十人足らずの
此処にいる六人
噛み合わない符号

何としてでもだと?
何、を


一番廊に近いところにいた男を突き飛ばして室を飛び出す。流れた叫びを聞き終わる前に滑る床を駈けていた。

叔父と師直がきっと止めていてくれるだろう。だが今はそんな余裕など欠片もありはしない。考える先から散っていく思考に焦って更に足を進めた。

目指した場所はよく知る処、そして


そして




「直義!!」

障子を蹴破るようにして打ち開いて踏み入る。上がった声は確かに求めていたものだった。

「!…に、うえ」
「っ!!貴様等」

何よりも大切な姿が見えて息をつく暇もなく、許されざる存在に猛烈な怒りが湧く。此方を見た男は三人。

「離せっ!」

半ばぶち当たるように直義に手を伸べようとしていた男をはじき飛ばす。座りこんだ直義を片手で強く引き寄せて、残る手で腰の刀を引き抜いた。

許せはしない
童じみた行為で、しまい込んだのは大切だからなのだと
踏み入れることを許す訳に

「……足利の若君ですか」

芥子色の従服を着た男がにたりと笑って刀を抜く。

「ご本人がおいでなら話は早い。我が主は御身をご所望でね。…しかし生憎ご不在でしたので、弟君に代わりにお話お聞きいただいていた次第でして」

抱きよせた腕の中の体は小さく震えていた。抱く力を強くして、成る丈優しく囁くように声を落とせば、細い声で小さく返事が返ってくる。

「…ただ、よし…大丈夫か」
「…あにうえ」

ぎゅっと握られた衣の裾にくっきりと皺がよる。潤んだ視線に、ざわりと内が騒いだ。

「…もう、もう大丈夫だから、」
「…はい…兄上…」

目を強く瞑って縋りついてくる身を抱き直して前を強く睨みつける。


酷く熱い。

どうかなってしまうのではないかと思う程燃え盛る熱は荒れていた。内から焦がす感覚は恐ろしく鮮明にあって、指先までを嘗め尽くしていった。

「…消えろ、今すぐ此の場から去れ」
「…」

ぎらりと刃が光り、差し込む日の光を弾く。

「…貴方のお身柄頂けますなら直ぐにでも」
「戯れ言を…!」

許せない
立ち入って許される場所など疾うに超えた
許さない
ならば?


「お聞きいれ頂けませんか…ならばこちらも…些か乱暴な手に出させて頂くことに、なりますなぁ…」

突然真っ白になった視界に突き抜けるような吐き気が襲う。悲痛な声が呼んだのを聞いたのに、白々と点滅する視界に邪魔をされて向き直ることもできない。

鞘にいれたままの刀に殴られたと気付いたのは鈍い金属音が反響してからだ。

「っ…く…ぅ、」
「兄上!兄上っ…」

崩れかける足を必死に繋ぎとめる。しかし力の抜ける腕はどうしようもなく、震えるように落ちた。

「あ」
「っ…直、義!」

酷く乱暴に引かれて直義はつんのめるようによろける。離れる体を掴もうと伸ばした手は虚空を切った。

「お連れしろ」

後ろから抱えられるように掴まれる。
がんがんと鳴り響く頭に視界が歪む。


離れた熱
聞こえる声は痛々しく自分を呼ぶ
それに苛立つ様に男が手を振るのが酷くはっきりと見えた

許せない
ならば
それならば

償わせるものは
償いきれぬものならば
全てを、




全てが白く染まった






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かえりみられることのない、視線