「……いいではありませんか」

ぎしりと、軋む音がする

「…貴方は……なのですから…」

軋んで、砕け散る、音が。




夢を、見た。

「…」

床から身を起こして、ゆっくりと息を吐く。薄く差し込む望月は青白い光を投げかけて活けてある花を淡く輝かす。夜の静寂にそっと熱い溜め息を漏らした。枕元に据えてあった水差しから器に水を注いで唇を濡らす。冷たいその感触に何故だか安心して伝う汗を拭った。

「…、」

ぎしぎしとぎこちない体を起こして縁側に立つ。熱に浮かされた体は六月の夜風になぶられてゆっくりと落ち着いていった。


季節の変わり目、特に雨季が続くこの頃体調を崩すのは毎年のことだった。今年はそう重い方ではないが、熱を持つ体はけだるいし何よりも外に出ることができない。普段風邪などひかないだけに、その落差は重かった。

夜半過ぎ、まだまだ月の高い頃ではあったが寝飽きた体はすっかり目が醒めてしまった。それでも面倒になって足を投げ出して縁側に座りこみ、背を障子の桟に預ければ途端に熱い体は重くある。

「……ん、」

乱れて垂れた髪をぐしゃりと掻き上げる。夢の残滓に引かれるようなうそ寒さがちりりと首の後ろを灼いた。



夢を、見た。…それでも別に珍しいことでもない。いつだって同じことを繰り返すだけの夢。幾度となく繰り返されたそれは最早ただ同じ台本をなぞるだけの出し物にも似て、何の感興も湧き起こすことはないのだけれど。いつだって唐突に始まるそれは、それでも些かの冷たさを伴う。

…薄闇で一人下りゆく階は、ひどく堅く澄んだ音をたてていく。ひたひたと押し寄せる水面に向かって緩やかに下ってゆく階だ。水面に揺れて弾ける景色はどこまでも朧気で、掴めはしないのにうすらとそこがどこなのか分かった。冷たい筈のそこに足を差し入れても、何一つ遮るものはなく階を下る足は止まることがない。胸のあたりまで水嵩がきたところで、階は終わりをつげる。あとはひたすらその中を掻き分けて前に進むだけ。これからなにがおこるか何て知りすぎるほど知っていた。

いきなりかち合う瞳には光がなくて、見つめ返しても動きはしない。覚えのある濁る色に目を眇めてやれば身を浸す色に漸く気がつくのだ。今更の様に鮮やかな赤はべったりと手を濡らし、まだ温かいそのままで滴り落ちる。じりじりと赤に浸食される感覚に何かを言いかけてそしてそこで全てが終わる。ただそれだけだった。

「……」

愚かしい、夢だ。
初めて見た時は驚きこそしたものの、回を重ねればそれすらも無い。見る回数すら段々と減って今では見ることは珍しかったが、それでもこの夢を見るのはどこかしら弱ってるときだと決まっていた。

腹立たしい事実は自分の弱さを突きつけてきて嫌気がするが、それでも変わるものなんて無かった。


殺したこと、すら忘れさせて
それでも流れる血それ自体に価値なんてありはしなかったのだ



……あれから、 あの、初めて手に掛けた日からもう一年近くが経とうとしていた。


なぶる風に髪を遊ばせて、雨季に珍しい晴れ上がった月を見上げる。

一年がたとうが自分は何一つ変わってはいないのかもしれない。適当な嘘を吐く術を覚えたし、自分の内から排除し弾き出す酷ささなんかはいい加減に手にいれた。それでもこの手にあるのはただ変わらぬ限られたものだけで、そのために在ることは変わり様がない。
ただ少し、変わったというのなら
きっとそれは自分ではなくて

…この月に照らし出された影のような




「高氏っ!!」
「……すいません母上…」

夜風に当たり続けた体は案の定熱を持っていた。昨日のそれよりも高いそれに、朝、察しのいい母にはすぐに気付かれてしまった。布団の上でようやく身を起こした自分に、一つため息をついてから用意していた膳を側まで持ってきた。

「まったく…ほら朝餉よ、食べられる?」
「…」
正直あまり欲しくはないが、確かに自業自得といえばその通りだ。無理やりに頷けば、母はやはり深々と溜め息をついた。

「兄上」
「直義、」

廊から駆け込んでくる姿に、つい笑いかけてから慌てて手を振る。

「よせ、駄目だ直義…うつる」
「でも…」

ぴたりと立ち止まった直義は少し眉を落としてこちらを見る。

「熱が…上がったと聞いて」
「はは…少しだけだ、大丈夫」

安心させるように笑いかけてから、少し畏まって言い直す。

「今日も行けない…悪いな」
「!いいえ、兄上はお大事になさっててください。」

にこりとそれは綺麗に笑い直した直義が、小さくだが力強く頷いた。それに頷きかえしてやりながら、そっと言葉をつぐ。

「気をつけるんだぞ。何かあればすぐに言え」
「もう…兄上、大丈夫ですから…」

少し怒ったように顔をしかめてみた直義はだがすぐに破顔した。


…一年がたち変わったのは自分ではない
変わったのはそう、寧ろ周りのほうだ。

背が伸びて自分は母の背を越えた。それ故という訳でもないだろうが、母は少し態度を変えた。勿論何か豹変したものがあったわけではないが、だが確かに時に見据えるものの立場を変えたのだと分かった。
師直はもう少しあからさまで、何だか少し形式張るようになった。頑なになった気もするが一度そう言ってみたら、それでいいんです、などと言われてしまった。

…そして直義は自分と共に出仕を始めた。元々聡い質だったから外に出るようになって、直義の自分への気遣いのようなものは格段に増えた。

直義を、守るのが自分の役目なのだとするならば
その自分を支えるのが直義の役目なのだと

その様な態度をとることが多くなったし、直義自身意図しているのだろう。

…そして自分はそうして側にいる限り、差し伸べられた手を握り返してやれる

そして笑ってくれるのだから、それでいい


そっと見やればやはり綺麗に笑った直義は、ちゃんと出来ますから、と言い募った。


「あ直義、そういえば、…!…げほっ…がは…!」
「兄上!」

駆け寄った直義が、折れた背を撫でようと手を伸ばす。止めようとして、喉をならせば出そうとした声は忽ち咳に変わってしまった。

「…ただ……げほっ…うつるから」
「…でも兄上」

「直義駄目よほら…高氏、薬湯よ飲みなさい」

差し出された椀をとって口に運ぶ。ちりりと喉を灼きながら落ちていく感覚に軽く眉をしかめながら無理やり流し込んだ。

「…ぷは…っ……母上…苦…いです」
「我慢なさい。良薬よ、それに灸を据えるには丁度いいでしょう?」
「……」

それを言われてはどうしようもない。軽く息を吐いてから心配げに見つめる直義に向き直った。

「薬だって飲んだしこれくらいすぐ治る、心配するな。」
「はい…」

こくりと頷いた直義にもう一度笑ってから椀を置く。

「ほら直義、そろそろ時間でしょう?高氏も朝餉を食べたらもう一度お眠りなさい」
「はい母上……ん、直義。行ってこい、宜しくな」

直義は立ち上がって、一度首を傾げてからそっと返事をした。

「はやく、帰りますから」
「あぁ、待ってる」

今度こそ笑い直した直義は、母に小さく会釈すると室を出ていった。

「まったく…高氏も…。直義にうつす前に治すのよ?毎日これじゃあいくらなんでもすぐにうつるわ」
「…そうですね…」

深々とため息をついた母にきまりが悪くなって慌てて目の前の膳から匙をとる。しかし小さく掬って口に運んでも、それは何の味もしなかった。

「…う…げほっ…」
「高氏…」

額に差しあてられた母の手は酷く冷たい。その冷たさが気持ちよくてそっと眼を閉じれば、少し早くなった自分の鼓動が聞こえた。

「もういいわ、寝てしまいなさい。今食べたらきっと戻してしまう」
「…はい」

母は膳をどけて身を横たえる。その支える手に従って沈めた体は、一度寝せてしまえば酷く重かった。

「…お休みなさい高氏。」
「…はい…」


瞼を引き下ろせば、黒一色の筈のそこは少しちらちらと光が散っている。熱い体にうんざりしながらも無理やり強く眼を瞑ってその光を消せば、そのまま吸い込まれるように眠りに落ちていった。




弱っていたのかもしれない
夢を、見てしまう程には

体は熱くて重くて仕方がなかったし、
殴られたかのように重く痛む頭を持ち余していた。

それでもこの日
例え熱などなかったとしても自分は


結局どうしたって直義の帰りを迎えてやることは出来なかったのだ。





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