戸に手をかけて閉めようと引く。 「…え、…」 がたり、と戸の鳴る音にだが、凍り付いたかのように手は動かない。 いつか見た、光景 …あの日も雨が、雨が降っていて。 けぶるような白糸が、全てを覆い隠す中に 浮かび上がった彩は あざやかな 「……か…?」 静かにこちらに歩いてくるのは、確かにあの日見た 鮮やかな、青 「……霞?」 「お久しぶりですのね……高氏…」 そして雨音の中玲瓏と響いた声が、すんなりと中に落ちた。戸を閉め切ってしまってから、そっと振り向く。 室の中で所在なげに座った霞が、小さく首を傾げてこちらを見ていた。 「…お病気でしたの?」 「……少し風邪をひいただけ」 そう、と少し困ったように笑う霞は、あの日と何ら変わりなかった。 聞きたいことが、沢山あるのに声にすることができない。見つめる先からこぼれおちていく言葉に途方に暮れてただ見返した。 あの日の後 霞は忽然と姿を消した。 最初はただ会えなかっただけだと思っていたのだが、痺れをきらして会いに行った件の店でまで、居ないのだと突っぱねられた。慌てて捜そうとしても、自分はそれ以上何一つ霞のことなど知りはしない。あてもなく歩き回っても何一つ手がかりなんかを見つけられることはなかった。 「…霞、その」 「高氏…熱があるのでしょう?顔色もよくないし、こちらにお座りになって?」 「…ああ」 兎に角重い体はひたすらにだるい。素直に頷き返して霞の側に腰を下ろした。 「……本当に、お久しぶりですわね」 「霞、…」 くすりと笑った霞は小さく首を振ってこちらを見上げる。 「探して下さったんでしょう?聞きましたわ…ごめんなさいね」 「…、」 困惑して見返せばやはり笑って、言葉を継いだ。 「…すこし、色々あったものですから。…でも探して頂けたのは嬉しいですわ」 「それは…、」 何と言えばいいのだろう。某かの罪悪感が無かった訳では無い。 「会いたかったのだけれど、…見つけられなかった」 「……私も、ふふ…今日こうして会えたのが夢のよう、」 花が綻ぶように、ぱっと笑みを浮かべた霞は抱えていた荷を側に置くと、そっとこちらへにじり寄った。 「あんまり会いたかったから、つい此処まで来てしまいましたの。許して下さいね」 「あぁ…、かなり驚いた」 漸く笑いかえしてやれば、嬉しそうに霞は微笑んだ。 雨音はかなり強く叩きつける。轟々とした響きに、外に目を走らせても上窓から覗く空はひたすらに厚いだけだった。熱で鈍い頭を振って、向き直る。反響する雨音に少し頭が痛かったが、構わず手を伸ばした。 「…また会えて嬉しい。」 「…ふふ、前にも言って下さいましたよね…本当にうれしゅうございますわ」 逆に伸ばされた手がそろりと頬を撫でる。触れる冷たさに思わず目を瞬かせれば、哂う形に目を眇めた。 「…今までどこに?」 「……。」 少し躊躇うように首を巡らして霞は俯く。口を開き掛けて、それでも何も言わずにそのままそっと口を噤んだ。その様子が余りに弱々しかったので慌てて言葉を継ぐ。 「言いたくなかったら、構わないから」 「…ごめんなさいね?」 「いや、いい」 困ったように笑って、霞はそっと手を添えた。 「…ありがとうございます」 聞きたいことは色々あったのに、その顔があまりに淡くてつい黙りこむ。 絶え間ない雨音だけが規則的に室に響いた。 「…こうして会いにきてくれたのだから、いい」 「…高氏が、御名前をお教え下さったお陰ですわ」 だからこうして来れましたの、と言って悪戯を仕掛けた童のようにけらけらと笑った。ふわりと広がるような暖かさに自然口元が上がる。穏やかな感情に小さく肩を竦めて言葉を繋げた。 「かなわないな、俺は、霞のことを全然知らない」 「あら、そうですか?…色々と、高氏はご存知でしょうに」 「そうでもないな、」 実際見つけられなかったのだから、寧ろ何も知らないと言った方が近いのかもしれない。まぁ、と口に手をあてた霞に笑いかけてやってから、小さく息を吐いた。 少し熱が上がってきたようで、吐く息がやたらと熱い。時折頭に差すような痛みが走って、思わず顔をしかめた。 …雨音が酷く五月蝿い。益々強くなったそれは最早一種、波のような轟きで叩きつけていた。 「…ですわ」 「え?」 雨音に気取られて聞き逃した言葉を追って、頭を上げる。にこりと笑った霞はそっと両手を伸べて、小さく囁いた。 「…私は高氏のことだったらきっと高氏より知ってますのに、」 頬を包む冷たさがどこまでも硬質な滑らかさを伝える。 「か…すみ…?」 あんまり近くで囁かれたそれは直接頭に響いていく。意味を捉える前にただその響きだけが広がって、雨音の中に溶けた。 ただただ降り注ぐ雨音は途切れることを知らずに。波打ち際の小さな貝殻を、いとも容易く浚うかのように、そのうねりはそのままひたひたと押し寄せてくる 「…そう、私は…なあんだって、知ってますのよ?……足利の高氏、さま?」 「……え、?」 いつの間にか絡めとられたかのように、熱い体は動かない。それでも何故だか鳴り響く鼓動だけがやけに鮮明で、背を伝う汗は何処か冷たかった。 何かが おかしい …おかしい? 何が変わった? ただ近すぎて見えはしないのに、眇められた瞳の色が、確かに何か 何か ひび割れた何かを 「…ね?高氏…?高氏は、あの私が居たのがどんな店なのかご存知?」 「いや…、」 響く 声と 雨、音が 混じり合って そして 最後には 「じゃあ、あの日高氏がお助け下さった男が、あの店に来たことがあったのは?」 「え…?」 おかしい、 何がおかしい 何 、が 「……じゃあ…あなたが『殺した』相手の御名前、は?」 「……っ?!」 「うふふ…なあんにも!知らないのね?…ふふふ………あはははははは!」 今ここで何が、 起こっているんだろうか? 頭の中にはひたすらにがんがんと差すような響きが …熱で? 雨の? それともこれが ひび割れた何かが崩れ落ちる音なのだろうか? 目に映る全てが、歪んで ぐるりと回る視界に目眩がした 「私は高氏のことだったら何だって知ってる。そう……源氏の名家、足利家の世継ぎで…治部大輔、従五位下を頂いているのでしょう?それとも一年経ったからもう少し…位が上がったのかしら?……っふふふ……お病気のお父上に変わってお家の采配を振ってらっしゃる…あぁ、弟君がお一人いらっしゃったのでしたっけ?……ほうら、何だって知ってるでしょう?まだ言って差し上げましょうか…?…ふふふふ…!」 「な………、ん…、…!」 早口でまくし立てられた全てが叩き込むように押し寄せる。 何を、言って 何故 何故 何故!? 雨の音がひび割れて 頭の熱が、崩れ落ちるように? 「……!」喉が張り付くように乾いて声が出ない。 ただ呆然と見上げれば、するりと離れた女が、見たことのない貌でわらった。 「ああ…高氏?」 こおりつかせたような笑みの宿る貌に そうして潜められた切先を、掴みとることは、出来ずに 刺さるような感情はどんなに激しくあろうと、けして暖かくはならぬ冬風にも似た 切り研ぐ棘に、刺し殺す毒のように 腐り落ちて滴る果実のように、芳醇な香を思わせる笑みで、 わらう形に浮かべたのは 「……顔色がよくないですわ…?ふふ…どうなさいましたの?」 彩られた狂気はあくまでも鮮やかで 含まされた毒の味はどこまでも甘かった next それでも何一つ壊れたものなどない |